無縫地帯

結婚のデメリットをはあちゅう女史は語り、私はデメリットを愛して生きる

伊藤春香を名乗るはあちゅう女史が、結婚について「おひとりさまの美学」を述べ、照れながら否定していたので、幸せな結婚生活を満喫している私が脊髄反射しました。

山本一郎です。物静かで穏やかな人柄です。

このところ、一大決心をしまして、20歳(自称)ぐらいから42歳の先月まで20年以上ほぼ毎日飲んでいたお酒をやめました。
といっても、毎日飲むのをやめようというだけであって、付き合いもあるので週一回か二回にしようということで、先月の酒販店や外商のレシートを見直してみるとだいたい酒代が8分の1ぐらいになった計算でしょうか。カネがどうこうというよりも、酒を飲まないと身体が軽いです。

また、未婚のころはあまり自炊をしませんでしたので、ほとんどが外食だったわけですけど、いまではほぼ三食、家内が作ってくれる料理でお腹を満たしています。人間、変われば変わるもんだと思います。子供と公園にいったり、算数を教えたり、一緒にテレビくんを観たりするのが日課です。

先日、はあちゅう女史が「結婚したら負けかなと思っている」とか言いながら結婚のデメリットを語るという記事が出ていて、面白かったので取り上げてみました。

結婚のデメリットは山盛り!?はあちゅうのおひとりさま結婚論

あー。結婚前は私もそう思ってたわー。

まあ、私の場合は「もう私は結婚しないのかも?と思った瞬間」ではなく、結婚できなさそうだという諦観だったわけですが。
結婚していなかった若い当時は、ビール党とかいう飲んだくれ団体を立ち上げて、ウェブでは「切込隊長」を自称し、どうせネットイナゴになるからにはイナゴの王になろうと張り切って指先運動家たちを率いて頑張っていたわけですよ、私は。そりゃ安易に結婚などできるはずもありません。

私の結婚のいきさつについては、以前Cakesで書きました。いま読み直しても恥ずかしい話ですが、ノロケとかではなく、かなり本気で家庭に向き合い、仕事と両立させながら暮らしていく選択を私はしました。

この国で結婚をするということ前編|山本一郎|ケイクスカルチャー|cakes(ケイクス)
この国で結婚をするということ後編|山本一郎|ケイクスカルチャー|cakes(ケイクス)
結婚って本当にメリットがないの!?老夫婦に結婚して良かったことを聞いてみた

[[image:image02|left|買い物帰りの子供たち。3兄弟それぞれ性格が大きく違います。]]

このはあちゅう女史の話は対談形式になっていますが、私は男だからなのか、かなり余裕があるように見えました。というのも、たぶん、はあちゅう女史は小奇麗にしているし、実際に手を伸ばせばそれなりに望む家庭も築けるであろうから、ある意味でいつでも結婚できることで「結婚しないこと」を商品にすることができているからなんじゃ、と思うわけです。実際、付き合っている友達は悪そうですが、彼女自身は素敵な人だと感じます。

また、はあちゅう女史の言うとおり、結婚のデメリットは多くあります。苗字が変われば仕事に差支えがあるかもしれないし、結婚していない独身の人からすれば、結婚している人は見栄を張っているように感じるのでしょう。ただ、結婚をして誰かと末永くともに暮らすのだということ、また子供が生まれてその子の人生を親として預かるのだという話になってくると、本来中心であるはずの「自分自身」がどこか遠くに飛んでいってしまいます。自分の欲求は、だいたいにおいて二の次になるんですよ、育児をしていると。

見栄張ってる場合でもないんですよね。

仕事に携わっている人間として、一人で暮らしていたころの気楽さはもちろんあります。そこに、結婚をすると夫としての立場と役割、親としての立場と役割、さらには子供が通園通学するからには町内会だ、マンション内の付き合いだ、ボランティアだと、その地域に家庭を持って根を張って暮らすときに必要なさまざまな義務が降りかかってきます。場合によっては、親の介護が挟まったり、夫婦の病気があってみたり、ストレスが溜まったり、もろもろ予定ができて家族で旅行もできなかったり…

確かに、こうやってみると、結婚というのはデメリットがたくさんあるのは間違いないです。

人間が、文化的に楽しく好きに暮らしていくことが目標になっているとすると、家庭を持つことは文字通り楽しいはずの人生に制約を設けることに他ならないからです。それを、人間”個人”の「損得勘定」で考えると、まあ圧倒的に損ですね。

[[image:image01|left|騒いで疲れ果てる子供たち。振り回される私たち夫婦。]]

「自分の幸せではないかもしれない」というのはその通り。誰かのために生きるのが結婚であり、育児であり、教育だということを、結婚して子供を持ってみて初めて分かりました。不当な要求をし、理不尽に泣く子供たちを宥めながらほぼ24時間対応で頑張っている家内を見ると、確かにこれは結婚するしないを「べき論」に押し込めて、結婚をしないやつは人としてどうなんだ、と押し付けるのは間違っていると二重に思います。無償の愛ですよ、あれは。

世帯や出産が人間としての次のステージに上がることだ、みたいな話は、主に年上の方から良く聞かされるのですが、私も働いているわけだし、家内の献身的な努力や、義母義父の理解と協力や、週に何度か来てくれる良いお手伝いさんにお金を払える経済力といった、独身時代には考えもしなかったような出費と悩みが付きまといます。超面倒くさい。でも、自分がやらなければ何も解決しない。たぶん、自分が子供のころは、私の親がその辺を解決していたのでしょう。自分が親になってみて初めて分かるこのダルさを貴方にも分かっていただきたい。

しかも、子供は結構頻繁に熱を出します。去年は去年で三男が熱を出して一ヶ月以上入院して、看病するために私は毎晩病院に泊り込みましたし、階段から落ちただ、おもちゃを兄弟で取り合って顔引っかいて流血しただ、止まっている自転車にいたずらをして菓子折りもって謝りにいっただ、池に落ちただ、電車で無断でうんこ漏らしただ、イベントフラグがこれでもかというぐらいに立ちまくります。今週は何もなかった、ということはまずないのです。

[[image:image03|left|大好きなママとお池でおたまじゃくしを発見し、捕獲に熱中する兄弟。]]

はあちゅう女史も、結婚して子供ができてみればいろいろと思うことはあるかもしれないけど、一人の人間として、楽しくこの世を渡っていくという価値観を貫きたいと考えている人に結婚を強いる、求めるようなことはなかなかできません。親しい間で、交際相手がいる友人や部下に「結婚しろ」と冗談で煽ることはあっても、私のように幸運に恵まれて、心から愛し合える人との巡り合いと慈しむ子供たちがいてもなお、これはこれで大変だということです。自信を持って「デメリットなど幻想だ。いい人周りにいるんだろ。行き遅れる前にはあちゅうはハードル下げて早く結婚しろ」とはなかなか言えません。

リクルートの昔の社訓に「機会によって自らを変えよ」という一節があります。私が大好きな言葉の一つです。結婚や出産は、いやでも変わらないといけません。自分が、責任感ある慎みのある大人でありたいと願う限りは。それは、自分の人生、ライフを作り変えることに他ならないことであって、独身からみれば、つまらないことに従属する自分の死に支度を整えることでもあります。大事なものが自分だけの人生から、家族の生活に変わったとき、それを受け止める人の気持ちはさまざまなんだろうと思います。

だからこそ、私はお酒をほとんどやめました。別にアルコール依存というわけではないんですが、ビールの代わりに水を飲む生活は文化的な潤いをまったく感じません。ちょっぴり辛いです。それでも、20年以上続いた習慣をパッと止める、そして止められたきっかけは、家内と、子供たちと、これから40年以上一緒に人生を歩んでいきたいからです。その場の快楽を求めて酒を飲み続けて近い将来に具合が悪くなるよりは、思い立ったその場で酒をやめて後で後悔しない選択をしたほうが良い。私は私で持病がありますから。別に何の記念日もなく、何となく酒をやめていまにいたります。

自分だけの人生ではないと悟ったとき、この身に訪れる老いも欲求も、すべてが形を変えたと思います。やっぱり、独身のころは老いるのは嫌であったし、老いたら死んで良い、だから思い切ってやりたいことをやり、楽しいことを突き詰めようと考えました。ただ、共に暮らす人があると、その老いと付き合い、ゆっくりと坂道を降りていくのも人生であると気づくわけです。

なるほど人間の一生というのは良くできているんだと思います。ちゃんと世代を超えて、見届けてから死ぬこともできるようになっている。もちろん、そこには離婚や死別やさまざまな不幸もあるのだろうけど、はあちゅう女史のような価値観であれ、私のような若年寄であれ、何よりも大事なことは自分としっかりと向き合って、悔いのない生き方をし、己に恥じることのない人生を送ることなのだと言えましょう。

確かに「信じている宗教の違いみたいなもん」でしょう。そして、独身と家庭もち、どちらが正しいというものでも、上か下かという話でもない。だから、ネットで評判になる記事を読むにあたっては、いろんなものを並立で目を通しながら、しっかりと心に向き合えるものは何かを探すのが良いのではないかと感じました。