無縫地帯

体罰と教育

大阪の高校生が教師にビンタ四十発をされて自殺するという痛ましい事件がありました。問題は、本当に体罰なのでしょうか。発達の過程で荒れてしまう子供と、規律を守る教育現場の蹉跌を論ずる必要があると思います。

やまもといちろうです。40歳です。最近とても疲れています。ゲームのやりすぎで。

私は幼少時代に転校をした経験があり、また大学に入るまでいじめたりいじめられたりという殺伐とした学生生活を送っておりました。お陰ですっかり人間性が歪んでしまい、いまでは立派な駄目社会人として、世間の最底辺にて経営者や投資家という他人の成果で飯を喰う最悪の職種に携わっております。

教育とはまったく無縁な私が、このところの体罰で自殺した高校生がらみで思うことがありまして…。

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まず、実家では教育ママを抱え、学校では進学校だったために、家でも学校でも塾でも結構頻繁に殴られた経験のある小学生生活を送りました。私自身、1973年生まれ東京育ちですので、ベビーブームのど真ん中で日本のど真ん中の大都会にて育ったホリエ世代であります。

そんな私が、一番最初に困ったのが育児です。何しろ殴られて育ちましたので、私のいとしい3歳児の長男が理由もなく泣くと殴りたい衝動に駆られます。夜、家で仕事をしているのに、家内が全力で寝かしつけているのに向こうのほうから「ほげー」という泣き声が聴こえてくると、約50%の確率でイラッと来ます。残りの50%の確率は仕事をすぐにやめてビールを飲みたくなるモードに入ります。どちらにせよ、仕事を持ち帰った夜に子供に泣かれることは、ワーカホリックを自認する私にとっては殺人的です。

ましてや、次男が生まれまして、もうすぐ2歳です。かわいいです。でも、男の子二人の年子というのは地獄です。何より、愛する家内が大変そうで憔悴しています。なので、私自身可能な限り育児を手伝いつつも、女中さんを雇おうかとか、お手伝いさんを呼ぼうか、託児所に入れようかなどなどと、私も見かねて提案するわけなんですけど…。でも家内は子供を自分たち家族の手で育てたいという強い要望があるために、しんどくても託児所やベビーシッターを使わない生活となっています。

子供が泣く、言うことを聞かない、というのは仕方がありません。以前、さかもと未明女史がどこぞで「飛行機内で子供が泣いて暴れる」という事例を書いておられ、ネット住民から女性週刊誌まで総じて批判に回りフルボッコになって炎上しておられましたけれども、やはり赤ちゃんからキッズに至る世代というのは理性で行動を抑えられないのでしょう。いけないことだ、と思っても、やめられない。大人は黙って見守るか、泣き止むような努力をするほかないのです。

しかし、父親としては、いつも余裕があるわけじゃありません。今日中に部下から上がってきた申告書や提案書に目を通して修正点を洗い出さねばならない、明日までに取りまとめるべき契約書に変更が加わってしまったといった差し迫った状況で、幼い兄弟が床でじたばたしてサラウンドで号泣するとかあると、ふつふつと自分が育った世界が蘇ってきます。

ひっぱたきたいわけですよ。

軽く頭をペチーンと。うるさいと。静かにしろと。こっちは仕事なんだよと。人が待ってるんだよと。言って聞かないんだったら、ひっぱたくしかなかろうと。とにかくいまは、いまだけは静かにしていて欲しい。血圧が、上がるのです。ああ、なぜここでいま泣くんだよ…困る。ましてや、だいたい兄か弟が泣くと、まるでボンバーマンの遊爆のように連鎖で泣き出します。なぜそこでシンクロするのだ。私は手は二本しかありません。絶望しますね。

しかし、立場が上だからこそ、しなければならないことはただひとつだと思うのです。それは、「我慢」。私よりも先に育児を経験された方を、私は尊敬します。ああ、こうやって子供を皆さん育てて来られたのだな、と。我が子に対する怒りとままならなさで顔を真っ赤にしながら、辛抱するしかないのでしょう。これは本当に大変です。大変なことです。子育てを母親だけでやっておられる方は、すべて通られた道だと思うんですけど、凄まじいストレスですよ。

私の下賤すぎる人間性では持ちこたえられなくなって、過去に何度も軽くペチーンとやってしまった経験があるのですが、やはり思い出すのは自分が殴られて育った経験でありました。もちろん、叩いたって子供はより泣くだけで、何の効果もありません。怖がるだけでしょう、きっと。かつては私自身が親に対してそう恐怖を感じていたように。親として、経営し上に立つ者として、我慢が足りなさ過ぎる。うまくいかないから、言うことを聞かないからってペチペチやっていてはいかんと思い直すわけですよ。そんで、今度は自分への怒りでまた血圧が上がるわけですね。もう育児は血圧上がりっぱなしです。家内がまた偉くて、どんなにしんどくても子供を叩いたりしないのです。聖母のようです。これは見習わなくては。勉強が足りません、私。

ひょっとしたら、育児というのは父親として、より高い精神ランクへ上がっていくための神から与えられた試練なのかも知れん。精神ランクって何なのか分かりませんけど。でもこの理性ではやったらいかんと理解していても、電車で、デパートで、レストランで、飛行機で、ホテルのロビーで、子供に泣かれたときに対処しなければならない、そして自分の力では絶対に対処できないであろう状況は、凄いストレスです。昔は、駅にはそれほどエレベーターもエスカレーターもない中で育児をされていた方のことを思うと、いま育てる環境が整ってきているというのは感謝するほかないだけでなく、80年代、90年代に子育てをやられた方を尊敬します。

我が子ながら、泣かれたら本当に大変だ。遅まきながら、次男が生まれた前後にどんなに厳しくとも子供をひっぱたかないと心に決めました。自分自身が叩かれて育った記憶と、人間としての狭量さとを克服して、子供のために戦うことにしました。当たり前のことだけど、むつかしいんだよ、これが。親でさえ、相当な忍耐がいる。そういう状況で、子供がある程度成長し、送り出した学校で教師や同級生に殴られたと知ったら、親はやはり怒りと悲しみの境地に辿り着くのでありましょうか。

また、多感な子供たちが青春を送るにあたって、いまの学校には教師の方々の数や制約が多すぎて、なかなか言うことを聞かせられない、学校やクラスのまとまりがつかない、といった問題にどう対処されているのでしょう。

体罰というのは、親と子供、あるいは立場が上のものと下のものがどう向き合い、どういう問題に取り組んでいくかといったプロセスが、あまりうまくいかなかったときに発生する症状に過ぎません。ましてや、子供は無垢で素晴らしい可能性を秘めているだけに、大人が思いつきもしないことをやり、騒動を起こすようにできているのでしょう。

私の場合は中学受験に成功し、いくつか合格が出て慶應義塾中等部に入部しました。しかし、家庭環境が反映されたからか、吉田君という同級生を殴って病院送りにしてしまい、私は退学(慶應義塾中等部でしたので退部という言葉でしたが)になる寸前まで行きました。いまでも思いますが、担任や校長(部長)はほとほと手を焼いたんじゃないかと反省しています。

親子面談があって、そのときに部長であった荒井秀直先生(慶應では福澤先生以外はすべて君付けで呼ぶのですが、この場では社会の一般通念に則り荒井先生と書きますが)に言われた内容は、いまでも覚えてます。「型どおり決まった子じゃない。慶應には必要だ」の一言でありました。
人生が、救われた(かもしれない)瞬間であります。
と同時に、教育者として凄まじい我慢だとも思います。

もちろん、その後も私は通常営業でありまして、学校のガラスを割ったり、ゲーセンでタバコを吸って補導されそうになったり、校舎の三階から飛び降りて腰を抜かして救急車呼ばれたり、学校に隣接した大学生協から文具を盗んでクラスメートに売ったり、いま思い返してもあの頃は何故こんなにラリっていたのか自分でも不思議なのです。が、その後は高校大学と進学して慶應義塾を設立した福澤諭吉先生の本をたくさん読み、大学では自治会の委員長までやり、追い出されない程度には勉強して留学までして慶應義塾大学は何とか卒業し、その当時就職が大変だったにも関わらず内定は随分頂戴しました。私のような人間として最底辺でも、広い心で更生させ最低限の人間味と学識を与えてくれ、社会に送り出してくれたのが慶応義塾です。本当に、慶応義塾の奥の深さには、恩義を感じています。こんな駄目な塾生でも、どうにかなるのだ、と。凄すぎる、慶應義塾。

逆に、今回自殺してしまった桜宮高校の男子バスケットボール部のキャプテン。体育会系の部活の主将なんて、私からすればどんな凄い世界なんでしょう。素晴らしい子だったんじゃないでしょうか。高校時代の私なんて、授業サボって日吉の裏の雀荘で「中国語の自主勉強」と称し賭けマージャンに興じていた馬鹿でありました。体育会なんて数ヶ月ももちそうにありません。そんな世界でキャプテンまで務められる子が、40発もビンタを喰らう壮絶さに耐えきれず自殺なんて、悲しいにも程があります。私よりも生きているに相応しい人が先に死んでしまうとか。

いまは世の中豊かになって、そんな体罰など要らんだろ、という陳腐な議論だけでなく、教師側の言い分もしっかりと聞いて、教師と生徒とがどういう我慢なら堪えられるのか、考えるべきだろうと思うのです。ビンタなど体罰しないで学校が何とか破綻しないで済むなら、教師も殴らんと思うのですよ。

体罰の禁止は社会の要請であることは間違いなく、根絶を目指しましょうという議論は良く分かります。ただ、いたずらに体罰はいけないからといって、教師が抱えている現状や就学環境を考えずに、教育現場に「縛り」だけがある状況というのは、より状況を悪化させてしまう恐れがあります。

なぜ体罰が行われていて、その体罰が果たしていた役割というものを見極めたうえで、体罰をやめたあと別の方法でその役割を担わせなければ、教育現場が荒廃するだけかもしれません。広い心で学生自身の更生を見守る、という経験は、私自身が類マレなラッキーを持っていたからであって、本当に前途有為な子たちが自ら死を選ぶことが一件でも減るようにするためには、通り一遍の体罰禁止とは違うところに解決策があるのでは、と感じざるを得ません。

荒れているとされる高校がなぜ荒れてしまうのか、体罰をしなければならない理由など、さまざまなものが語られずに残されている気がします。また、教師を含めて教育の現場がもっときちんと声を上げられ、何か子供がやらかすたびに画一的に教師の責任とされてしまうことのないような報道になるといいな、と思います。それは、叩いて子供を育てた時代からの決別を、叩かれて育った親による家庭と叩かないと規律を守れない教育現場と双方が取り組まなければならないことです。そして、家庭にとって学校へ躾の至らぬところを押し付けてはいけないことでもあります。

体罰と教育、といえば簡単なテーマなんでしょうが、これは「社会の尊厳」の問題だと思うんですよね。あるいは「出来の悪い子と社会の向き合い方」。
簡単じゃねえぞ、これは。