無縫地帯

池上彰さんの朝日新聞連載再掲載の件、週刊文春の役割は偉大だったと思うんだよね

池上彰さんが朝日新聞での自身の連載において、朝日の報道姿勢を批判する記事を寄せたところ、朝日新聞が掲載を見送る通達をし、池上さんが連載を降りる騒動を文春が報じました。この炎上の顛末が興味深いです。

山本一郎です。子供のためにダイキンの空気清浄機を導入して早数ヶ月なんですが、一番許せないのは稼動している最中に私が帰宅すると漏れなくニオイセンサーが真っ赤になることなんですよね。通りかかっただけで赤くなるとか、帰宅を急ぐウルトラマンの類ですか。破壊衝動に駆られますね。人間様にならともかく、たかが工業製品に存在を否定される気分にさせられるのは久しぶりです。血圧が上がるといいますか。そんなに匂いますか私は。赤くなるほどに。加齢臭その他に対する表現の仕方について、よりおっさんに優しい表示方法をダイキンは模索していくことが企業としての使命ではないでしょうか。猛省を求める次第です。

ところで、このところ池上彰さんの連載記事において、朝日新聞が掲載を拒否することで連載を降りる話が週刊文春にスクープされ、これをきっかけとして大論争となって、朝日新聞が見解を改めて池上さんの連載を掲載する方向に転換したというニュースがありました。

話の発端は週刊文春の記事をお読みいただくとして。

池上彰氏が原稿掲載拒否で朝日新聞の連載中止を申し入れ(14/9/1 週刊文春web)

で、なぜか朝日新聞側のお話がちょっと混乱気味で、NHKでも「「中止を正式に決めたわけではなく、池上氏とは今後も誠意をもって話し合う方針です」と打ち切りを池上さんに通達されたはずの朝日新聞広報が話しているという不思議な状態になっているようです。正式に決める立場にあるのは朝日新聞の側じゃないですよね、この場合は。

池上氏 朝日新聞に連載打ち切り申し入れ(14/9/3 NHKオンライン)
池上彰氏、朝日新聞での連載中止を申し入れ慰安婦「検証」批判、掲載を拒否され(14/9/2 産経新聞)

いろんな記事が現在も乱舞しておりますが、これらの朝日新聞の態度転換を決めたのは、Twitterなどで朝日新聞の記者ほか現場の皆さんが朝日新聞の組織としての決定を否とし、判断を再考するよう促した声に押された、ということのようです。

朝日新聞、慰安婦問題扱った池上彰さんのコラムを一転、掲載へTwitterで謝罪(ハフィントンポスト 14/9/3)

でもこれ、よく考えると幾つか問題があって、本来であれば朝日新聞が現場の声に押されて判断を覆したことそのものよりも、問題を認識してしっかりと真正面からスクープを報じられた週刊文春にこそ一番槍の評価を与えるべきなんじゃないかと思うんですよね。

また、本件を撤回するに至った経緯として、朝日新聞としては「相手が連載している池上彰さんだから”折れた”」ように読み取れるところに違和感を覚えるわけです。朝日新聞は(周囲からの評価は別として)多様な意見を掲載する新聞であり、その朝日新聞の姿勢に異を唱えた池上彰さんの連載記事でも掲載するのだ、という話なんですが、この揉め方をするということは、意見を聞いて社としての態度を改めるつもりは当初は無かったのだ、という話に他なりません。それが、「池上彰さんだから」掲載になったのだ、というのは、池上さんの影響力に負けたって話ですよね。

池上さんの件。ネット上の罵詈雑言や週刊誌広告の煽情とはワケが違います。「善意の批判」までを封じては言論空間が成り立ちません。度量の広さを示すチャンスをみすみす逃したばかりか、発信力のある書き手を「敵」に回してしまった。何重もの意味で「らしく」ない、もったいない対応でした。冨永 格 -twitter
朝日新聞の特別編集委員で、朝日新聞の外に伝わっている中では特にバランス感覚に優れた人と評判の冨永さんでさえ、発信力のある書き手である池上さんの記事を「善意の批判」とし、格別の配慮をするものだとしてしまいました。もちろんネット上の罵詈雑言や週刊誌広告の煽情と池上さんの記事を同列視しという話じゃありませんが、この話だと、ネット上や週刊誌にある朝日新聞への批判のすべてが建設的でないものという認識を持っているのではないかと感じてしまいます。

そして、この問題が相応の騒動になった契機は煽情を旨とする週刊文春の一本のスクープからだったのであって、これが無かったら池上さんの自発的な「朝日新聞から連載切られました」という暴露がない限り揉み消されて、池上さんの連載は自然消滅していたんでしょう。本当にそれで良かったんでしょうか。

あくまで本件を第三者目線で言うならば、確かに騒動になって判断を撤回した朝日新聞は一分の明はまだまだあるのだと言えるけれども、騒いだ朝日新聞の記者も含めて発端としてリスクをとって報じた週刊文春に御礼や労いの言葉の一つもあるべきだと思うんですよね。せめて、風通しの良い言論を今後も朝日新聞が担っていくのだという気概があるのであれば、見事にそのチェック機能を果たした週刊文春に対する敬意が出て然るべきだったのでは、と感じる次第です。

いやいや、相互チェックというのは筆で生きている人たちの馴れ合いではなく、緊張感によって生まれるものなのだ、ということであれば、それはそれで理解するところなのですが、もうちょい視界を広げてもいいんじゃないかと。