日本は単純な移民奨励ではなく、迫害される穏やかな属性を受け入れよう(雑記
仕事を通じて、異文化との交流って本当に難しいんだぜと思いつつ、でも敢えて隣人として迎え入れるならまず何を考えるべきなのか、思索に耽る内容を吐露してみます。
山本一郎です。知ってますか、水虫というのは徹底した乾燥と適切な投薬で治るんですよ。
ところで、家族の病気・入院もあり夏の出張をキャンセルすることになってしまったんですが、それでも海外での仕事のウェイトを減らすことが可能になったのは現地で働くスタッフでまともな人を雇えたことが大きいからであります。勤務地は極東ロシアだったり外モンゴルだったりトランスウラル方面なんですが、以前はいちいち現地に私が訪問してあれやこれや指示しなければならなかったのが、いまでは管理者をたくさん雇用できてかなり楽になりました。ありがたいことです。
なぜそのような人材を雇用できたのかというと、単純な話、仕事があって、お金が払い続けられるからです。
我が国だと当たり前のことなんですけれども、一人の人を数年間にわたってひとつの職場で雇用し続けられる環境というのは非常に恵まれています。日本を一歩出ると、安全と水はタダではない現実を知るといわれますが、それ以上に、安定した雇用がもたらす恩恵というのは計り知れません。この手の未開発地域での仕事では、日本国内でただ暮らしているだけでは分からない事柄について、多くの気づきを与えてくれるのです。
雇った彼らは貿易実務をはじめから理解して就業するわけではありませんが、大学で、あるいは独学で、英語と日本語をある程度マスターしてきている人たちがほとんどです。日本語で冗談も言いますし、マネージャー同士では日本語や英語で日々仕事をし、帰ると現地の言葉で暮らすのが当たり前になっています。ちなみに私の仇名は「白髪はげ」でした。大きなお世話だ馬鹿。現地で働きながら、語学を修めるのが一般的な地域では、日本人の大学生が土下座してもなかなかできないようなスキルを習得しているケースがありまして(傭兵をやりながら同時通訳の勉強をしている元鉱山夫とか)、なかなか日本社会で生きる私たちのイマジネーションの外で頑張る逸材も多々います。
で、あまり知られていないことですが、彼らはそのようなスキルを身に着けて生きていかなければならない理由がおおよそ3つあります。
1. 女性であるか、
2. 宗教的にマイノリティであるか、
3. 少数民族の血が入っているか
です。どれも、日本社会においては「それが理由で迫害されるというほどでもない」ものばかりが事情で、住み慣れた地域を追われてしまったり、望まない結婚を強いられたりしているわけですよ。日本人からしたら、信じられないことの連続であります。そういう悲しい経験を抱きながら、スキルを高めて必死に生きている人たちなわけですね。
もちろん、これらの属性の全員が何らかの高度なスキルを備えているわけではありません。どうしようもない人もたくさんいます。ただ、我が国の経済を考える上で、移民が必要だ、と考える人の多くは、日本国内の事情だけ考えて、移民をしなければ生きていけない人のことをほとんど考慮に入れていません。高いスキルの人が、日本で暮らしたい、家庭を持ちたいと思うような仕組みを作ることは、最低条件とも言えるわけですよ。
シンガポールのように、移民を単純な労働力と考えて移民政策を考え、「一定の期間(3年間)で帰国すること」「シンガポールで働いているときは結婚や出産をしないこと」などの条件を課して、人権上微妙すぎる政策を実現している地域はあります。これらの地域を参考に移民政策の「いいとこ取り」をしたいという欲望に駆られるのも分からなくもありません。
ただ、日本の場合はシンガポールのように「隣のマレーシア」はなく、都市部でない地域がたくさんあるのが実情です。カナダやオーストラリアのように、資産家だけ移民を認めようとしていたら、中国人が大量に入ってきて国がアンタッチャブルなチャイナタウンができてしまう現象を日本で起こすことは、深刻な社会の分裂を起こすことになると思います。
願わくば、日本という恵まれた地域で暮らしたい人たちのことも考え、移民を考えるスキルフルな人たちのニーズを捉えた独自の方法を日本も模索できないだろうかと思うわけです。それも、いきなり何万何十万という人数ではなく、まずは特定の属性を持つ数百人、千人といったところから徐々に試しつつ、日本文化との共存方法を教え、ともにこの地で暮らしていける仕組みを作り上げていける気持ちを持った人たちと穏やかな移民政策を検討することが日本社会に無理なストレスを与えずに良いのではないかと考えるわけです。
単純に「人手不足だから移民でいいや」というのは、あとあと解決困難な問題を容易に引き起こすと思います。現在の深刻な移民ストレスが社会不安に直結しているEU各国の状況や、日本においてそもそも地理的に隣人に恵まれていない状況も良く考えた上で、人道的かつ移民をする側にも移民を受け入れる側にも納得がいくような方法を模索することが一番大事なことだと思います。
それと併せて、いろいろ議論は進んでいるはずなのになかなか善処されない出生率改善議論も含めて、日本の21世紀後半の設計図をしっかりを考えていくことが、この時代を生きる日本人の務めだと考えますし、真の意味での戦後の終わりを迎える準備になることでしょう。
ただ、最後に付記しますが、来てもらうからには「都合が悪くなったから帰ってくれ」は通用しません。最初に日本が条件を決め、それを最後まで遵守する覚悟が必要であり、なあなあではトラブルの元になります。逆に、相手にも「来るからにはこれを絶対に守ってね」という一線を理解してもらう必要があります。逆に言えば、そういうところから日本社会の透明性を確保して、閉鎖的な部分を徐々にきちんと明らかにしていく覚悟が移民政策の設計には必要なことだろうと考えます。公平な法制度や、田舎特有の差別意識をいかに廃して、隣人に迎え入れるのかは国民全体の議論として必要なことなのでありましょう。
ゴミ出しひとつとっても揉めがちな町内会で、一人でも多くのニューフェイスが出てくることを期待してやみません。
多国籍な人たちと一緒に水虫の悩みについて語り明かしたいです。