無縫地帯

細木数子事件と陽明学の死

ちょっと思うことがあり、細木数子事件について論じてみたくなりました。

山本一郎です。吐いた唾を飲み込まない経営者が好きです。

ところで、日本財団の笹川陽平さんが書いた文章が画期的だったので取り上げてみたいと思います。

「陽明学は死んだのか」

当時は先生を師と仰いで門下生になることが一種のステータスであり、政治家も財界人も垂涎(すいぜん)の的で、勉強会に参加していることを自慢話として私に語った人も多くいた。

しかし「細木数子」事件で、門下生のレベルは私の知るところとなった。要するに、高名な先生のクローズドの勉強会に入ったステータスに満足しただけで、先生の教えを実践しようとは考えてもいなかったのである。「陽明学は死んだのか」
いわゆる「昭和の事件史」に関心のある人であれば、誰もが聞き、驚く細木数子事件ですが、安岡正篤記念館ではこれらの事件はなかったことになり、葬り去られています。顛末は、笹川さんの書かれた内容でもちろん間違いありません。

ここから読み取るべきは、結構本気で陽明学は死んでるんじゃないかという問題意識です。陽明学って一言で言っちゃうと「儒教じゃん」で切り捨てられるところはあるのかもしれませんけれども、日本人の倫理観を考える上で、心があり良知によって身の回りの風紀を正すこと、これが格物であって、知行合一の精神の根幹部分だと私は勝手に認識しております。要は、知って、その善悪を己の心で判断し、善であればそれを為し、悪であればとっとこ改めるべく行動するという考え方です。

では、その心とは何ぞやの話もまたあるわけですが、それは生まれ育った家庭、学校など教育も含めた環境と、世の中への奉仕(仕事含む)を通して培っていくものが意、その人の精神のありよう、善悪の線引きでないかと思うわけです。「世の中、こうであってはならない」「正直者が馬鹿をみるのは許せない」という気持ちを持ち、そうであるからこそ、自分の意に照らして望ましくないものを具体的な行動で是正していく働きこそ、陽明学がこの社会にもたらした智慧のひとつだと考えるわけです。

然るに、笹川さんの細木事件で「認知症を疑われた安岡さんに、細木さんが無理やり結婚誓約書に署名させた」のであれば、それが事実であるかを知る努力を払わなければならなかった。ところが、実際には安岡さんを物理的に隔離してしまうという、どっちが犯罪なんだか分からん話となって、結果として高弟を自称する面々が、かえって安岡さんの晩年に泥を塗ってしまうことになります。そこには、果たして本来陽明学が人の人たる道を示そうとした善悪を知った上での行動であったのか、疑問に思うのです。

その後の顛末としては、細木数子が諸事あって墓石販売などのかどで右翼や暴力団筋に突っ込まれ表舞台から姿を消さざるを得なくなるものの、サイバードの占いサービスで月間一億円の利益(売上ではない)を挙げたという不思議な事態に陥るわけですけれども、ここでも陽明学が本来目指した意は達せられていたとは言えません。もちろん、いろんな人物がいろんなお立場で関係を築いておられたので、外野がああだこうだ言うのはお門違いかもしれません。が、昨今の現状を見るにつけ、比喩でもなんでもなく、陽明学は哲学として死んだのでしょう。金が入れば良いという即物的な浅慮が跋扈し、またそれが新しい日本のあり方だという人が人気を博すようになったのは、まことに日本人として不明を恥じるほかありません。