無縫地帯

東芝とAppleの遺伝子データ解析プロジェクトの差に見る「日本はなぜ科学技術開発で負けるのか」

東芝が日本人ゲノム解析サービスを開始した詳報が流れてきましたが、その内容を上回るニュースがAppleから飛び出し、彼我の落差を見るに「我が国の何がいかんのだろう」と悩まずにはいられません。

いまからちょうど5年ほど前になるでしょうか、主に大手IT企業などが旗頭となる形で遺伝子検査を受けるのがちょっとしたトレンドとなりました。当時はこういう検査を受けて自身の健康を管理するのが意識の高い証拠みたいな演出で喧伝されたので、思わずそれに乗せられて検査を受けてしまった人も少なくないのではないでしょうか。

しかし、そうしたカジュアルな遺伝子検査で得られる結果から何が分かるのかを突き詰めていくと、残念ながら大した意味はないかもしれないという評価が識者から発せられたこともあり、いつしかあまり話題にならなくなったように感じます。

話題の遺伝子検査、これでは何もわからない医者が受けて感じたこと(ヤフーニュース個人 中山祐次郎 16/11/30)

例えば「自分は家系に肺がんになった人が多いが、遺伝子検査で自分がどれ位肺がんになる危険があるか」という問いには、遺伝子検査は満足に答えられないということです。また、筆者はこの検査を受ける前、遺伝子検査で自分という人間の大まかな病気の傾向を把握するのに役立つかと思っていましたが、それも出来ませんでした。
ヤフーニュース個人
上の記事が書かれた時点では将来的にもっと意味のある情報が引き出せるようになるといいよねぐらいの結論だったわけですが、あれから3年ほどの時が経ち、遺伝子・ゲノム関連にまつわる知見も大幅に進化したということなのでしょうか、我が国が誇る大手企業の一つでもある東芝がかなり野心的なプロジェクトを今年の5月に発表しました。

ゲノムデータの収集開始ならびに医療分野に実績のあるベンチャーキャピタルとの業務提携について(東芝 19/5/10)

数十万人の遺伝子データ収集、まず従業員から東芝募る(朝日新聞 19/8/29)

事業化には数十万人分のデータが必要とみられる。そこで東芝は、第一段階として東芝グループに所属する日本人従業員から1万人分のデータを集めるため、7月から募集を始めた。同意した従業員から、7~8月の健康診断で採った血液や健康診断の結果の無償提供を受け、社内でデータベース化する。朝日新聞
こうした報道を目にすると当然ではありますが、東芝社員であればこういう検査への参加を拒否するのはなかなかむつかしいことなんだろうなと想像したりするのが人情であります。この遺伝子データとはちょっと趣が異なりますが、社員の勤務中の脳波を測定するという人権問題に発展しかねない企画が報道され一部で炎上した事案もあったりしましたが、それに近い違和感を覚える話です。

企業が社員の脳波を監視する時代が到来(東急の釈明を受けて、追記あり)(ヤフーニュース個人 山本一郎 19/10/2)

東芝の件については何やらモヤモヤしたものを心に抱えつついつの間にか時間が過ぎてしまっていたのですが、今頃になって以下のような記事が公開されておりました。

東芝はなぜ全従業員にゲノムデータを募ったのか「終身雇用」がデータ収集・解析のアドバンテージに(日経BP Beyond Health 19/12/4)

少しばかり長文の記事ですがこの記事を書いている時点では誰もが無料で全文を読むことができるので、興味のある方はぜひリンク先の内容をご自身で確認していただきたいものですが、ここでは相当に目を引いた箇所を以下に引用してみたいと思います。

東芝は(中略)不正会計にのめり込み、1万人規模のリストラを行った。いわば、従業員を裏切ったのかもしれない。背水の陣として打ったのが、従業員へのゲノム募集。人心が離れておかしくはない従業員が、究極の個人情報とも言われるゲノムデータを寄せてくれるのか。高いハードルを越えられるのか、東芝チームは挑戦のただ中にいると言える。日経BP Beyond Health
一昔前に流行ったNHKの「プロジェクトX」風の言い回しでなにやら凄みがありますが、とにかく社員総出で困難にぶつかって成果を出そうという心意気だったようですね。いみじくも記事の中では「終身雇用という日本の企業風土だからこそできること」と高々に宣言されていますが、こういうやり方が一体いつまで通用するのか、また、これで「GAFA」という頭文字に象徴されるような世界の先進企業と互角に戦っていけるのか。いろいろと頭を抱えたくなるような雰囲気もありますが、少なくとも「東芝」という企業はこういう答えの出し方を選んだということなのでしょう。

しかしながら、記事には「同意書」にサインして遺伝子情報を集めるという趣旨の記述はあるものの、例えば協力の求めに応じたもののその後退職した社員の遺伝子データの扱いなどには触れていません。また、おそらくは少なくとも東芝に勤めているあいだは健康情報その他のその人の身の上に起きた事実と遺伝子データを突き合わせて、どの遺伝子特性の人はどのような疾病を起こしたのか把握しようとするのかもしれませんが、66万か所の遺伝子データと検証できる本件プロジェクトが総合わせで健康リスクの予測に役立てるための検証をするとなると、東芝の社員や取引先、バイトやパートのおばちゃんを全員駆り出してもサンプル数が足りなくなるんじゃないと思います。それでも、東芝社員で合意してくれる協力的な社員が万単位いるのが事実であれば、それは開発コスト低減化の意味で素晴らしいこと、なんですかね。

そして、めでたく従業員の一致団結によって成果が出たのでしょうか、東芝は新たなゲノム解析サービスを開始したと報じられております。

東芝、日本人ゲノム解析ツールを用いたゲノム解析サービスを開始(ZDNet Japan 19/12/2)

東芝はジャポニカアレイNEOを用いたゲノム解析サービスを研究機関に提供することにより、日本人の疾病や形質などと、遺伝子を構成するDNA配列の個体差である遺伝子多型との関連性を解明する研究を支援する。ZDNet Japan
東芝従業員の皆さんの献身がより多くの日本人の健康に大いに役立つ未来が到来することを願うばかりです。

で、ここにきて今度はAppleも全従業員とその家族全員向けに「AC Wellness」にて無償で遺伝子検査サービスを受けられる仕組みを発表しました。まだリリースできていないサービスの研究のために遺伝子情報を社員総動員でかき集めて根性据えて頑張っている東芝に対し、18年末に13万2,000人の社員を擁し、さらにその家族にColor Genomics社がすでに効果を上げているがんや心疾患の遺伝子検査の仕組みを無償で提供するという彼我の差に愕然としてしまいます。

アップルが従業員に遺伝子検査サービス無料提供。「治療」から「予防」へ(Engadget日本版 19/12/13)

たとえ従業員および家族だけが対象とはいえ、気になるのがプライバシーの扱いです。その点に関しては、アップルは別の子会社を設立し、臨床ソフトウェアの発注と管理を行う業務の運営を任せているとのこと。それにより、雇用主が従業員の最も機密性の高い健康情報に直接アクセスできないようにする規制を守っていると伝えられています。
アップルが従業員に遺伝子検査サービス無料提供。「治療」から「予防」へ
東芝の「『終身雇用』がデータ収集・解析のアドバンテージに」は、つまりは会社に長く勤めてくれる社員は、本来なら治験のための遺伝子データそのものやその後の健康状況の把握・管理までかけるべきコストを払わずにデータを無償で提供してくれるだろうという意味であるならば、東芝の皆さんにとっては本意ではないかもしれませんが「欲しがりません、勝つまでは」の精神に近いのではないかと思います。

また、ゲノムを用いた診断や新薬に関する基本的な取り組みは準備が進んでいて、お金のない大企業が終身雇用の意味付けに遺伝子データを合意うのある社員に差し出させるようなことをさせずとも方法はいろいろあるわけで、その点は東芝も自分だけの頭で考えずいろんなところに相談して進めていればもっとエレガントにいけたのではないでしょうか。

ゲノムが作る新たな医療推進委員会(医療トレーサビリティ推進協議会)

東芝の施策を一概に「良くない」と言えないのは、我が国の遺伝子関連の施策は特に個人情報保護法や次世代医療基盤法で基盤整備が進んでいるものの、いまだ広く連携が進み多くの果実を生み出せる状況にはまだ達していないことに尽きます。2013年当時の東北大学が進めていたCOI東北拠点での各プロジェクトは、画期的なテーマも多数ある、非常に魅力的なものも多く注目されていたように思います。

東北大学 COI東北拠点(東北大学)

ところが、今回東芝の事例がむしろロートル企業の面白事業案のレベルで浅堀され、なぜか終身雇用だから凄い(なんと社員が無償で遺伝子データを提供してくれたので研究開発が進み事業がローンチできそうです、みたいな)話に収斂されてしまいました。現実は2013年当時はかなり画期的で面白いんじゃないのと思われる話が2019年に東芝の独自の努力で実現に漕ぎ着けたころには、すでに西海岸で東芝が投じた数百倍の予算でColor Genomics社があっという間に疾病予測の遺伝子解析で事業化に成功してしまい、東芝の数倍の規模のAppleがおそらく年間数百億円の規模で福利厚生のお金を突っ込むサービスに成長してしまったのです。

東芝がやりたかったことはこれですよね。

東芝が無能だったのではなく、思いついたことを実現していくスピードが、いまの日本企業や産学連携の中ではなかなか導き出すことができないものであり、これは日本の社会や企業のシステムそのものの脱皮が必要で、しかし実際に起きていることはむしろ逆に、科学技術に関して詳しくない人たちがある意味で好き嫌いで物事を動かしてしまう現実にあるように思います。

それでも、山中伸弥さんの「iPS細胞」への研究は支援されるべき理由問題は「iPSへの助成偏重」ではなく「助成額の絶対的不足」と「研究支援の仕組みの悪さ」(文春オンライン 19/12/13)
安倍首相補佐官と厚労省女性幹部が公費で「京都不倫出張」 和泉洋人 大坪寛子(文春オンライン 19/12/11)

決してグローバル経済だけがすべてではないにせよ、このような事例が各分野の先端技術で起き続け、資本の論理で日本の努力が抜き去られて、まさにグローバル経済での下請け国のひとつになってしまわないようにしないといけないはずなんですが、いま起きているのはこの手の逆回転ばかりなのはとても気になる次第です。