「田中」日大の政官共犯者 【2】
國松・元警察庁長官、二度目の屈辱
この貴重なツーショット写真が意味するものは深くて苦い。起訴された田中英寿・日本大学前理事長と談笑しているのが、警察庁の國松孝次元長官だからである。長官在職時の1995年3月、何者かに狙撃され、オウム真理教の犯行とみた警視庁が捜査しながら、殺人未遂の公訴時効(15年)までに立件できなかった。不覚にも自らが撃たれた事件が迷宮入りという屈辱を味わった元長官は、今度は警察の"日大お目こぼし"の人質になっていたのか。=7500字
写真は6年足らず前の2016年4月2日、開校した日本大学危機管理学部スポーツ科学部の記念祝賀会で撮影したものだ。國松元長官は主賓として招待され、向かって左隣にはホストの田中理事長と大塚吉兵衛学長(ともに当時)が座り、右隣にはやはり主賓の森喜朗元首相と、危機管理学部創設の旗振り役だった亀井静香衆院議員(当時)が肩を並べていた。
まだ卒業生が2期しか出ていない歴史の浅い危機管理学部は、開校わずか2年で「役立たずの学部」としてその名が世に知られる苦汁を飲まされた。2018年5月に起きた日大アメリカンフットボール部「フェニックス」選手による反則タックル事件の余波である。
反則タックルもほとぼり冷めて和解
次期理事長との呼び声がかかっていたほど田中理事長の覚えがめでたかったアメフト部監督、内田正人氏が、関西学院大学のクオーターバックを狙い撃ちにするタックルを選手に唆したのではないかと批判を浴びながら、なかなか非を認めなかったため、囂々たる非難の的になった。結局、井上奨コーチが謝罪会見で「つぶしてこいと言ったのは事実」と認め、内田氏は監督辞任の意向を示しながら、自身の指示ではなかったとし「心を育てるための過激表現」との言い訳に終始したのである。
日大は第三者委員会の報告をもとに2人を解雇処分としたが、警視庁の捜査で「反則行動を指示した言動は確認できない」とされて起訴は見送られ、傷害容疑での書類送検となった。内田氏はこれをもとに日大に対し解雇無効の民事訴訟を起こし、19年12月に日大は懲戒解雇を撤回、退職とすることで和解した。
それをとらえて、内田氏と井上氏を「悪人に仕立て上げたメディア」を糾弾する記事まで流れたが、内田氏が日大常務理事の要職に就いていて、非正規職員や教員などに絶大な人事権を握っていたこと、今回背任で逮捕された井ノ口忠男理事がアメフト部OBで、内田氏の後ろ盾になっていたことを考えれば、まったく的はずれでむしろ警視庁の"お目こぼし"を疑うべきだった。
結果として、解雇は田中体制を継続するためのトカゲの尻尾切りとしか考えられず、ほとぼりが冷めたころに解雇をさりげなく撤回して和解で蓋をしたのは、田中氏や井ノ口氏の意向が働いたからだろう。タメにする記事を書いた御用ライターは、今回のような井ノ口理事およびその実姉が経営する広告代理店ぐるみの不正を長引かせる片棒をかついだにすぎない。
元長官とのニギリで200人捜査甘く
終始ダンマリを決め込んで会見を避けた田中氏はじめ、当時の大塚吉兵衛学長や、会見が仕切れずキレた司会の広報をみても、田中理事長を守るためなら道理を無理で押し切る、いかにも稚拙な日大の対応はおよそ「危機管理」とは縁遠いものだった。ネットでは「危機管理とは名ばかり。何のための新学部か」と笑いものとなる。一見新しそうな「危機管理」の名につられて志望した学部在学生は「就職に響きかねない」と気を揉み、現に入試でも学部の人気が下がり偏差値が低下したという。
それも道理だろう。危機管理学部はそもそもから動機が不純だった。日大と警察の癒着を示す証拠のひとつがこの写真なのだ。キャリア警官の最高峰、警察庁長官OBがここまで田中日大とがっちり手を握っていては、200人を投じたという警視庁のアメフト部捜査が甘くなっても仕方がないと思えてしまう。主賓席の全体像をみれば一目瞭然ではないか。元長官に元首相、そして剛腕で知られる亀井氏まで雁首を並べているのだから。
この主賓席の面々は日大とどんな関係があったのか。亀井氏はもちろん警察OBである。キャリアとして入庁し、15年間勤務して警視正まで昇級してから政界に転じた。1979年に旧広島3区(現広島6区)で初当選して以来、2017年の引退まで13期連続当選している。いまも矍鑠とした85歳で、自ら設立した警備会社JSSの会長を務めながら、『永田町動物園日本をダメにした101人』などの著作を書き、テレビやラジオに出演して辛口の政界評を披露している。彼のオフィスを昨年12月27日に訪ねて、これらの写真を見せるとともに祝賀会の顔ぶれと経緯を聞いてみた。