ベンチャーの「導師」天井次夫氏逝く
                       日本ベンチャー協議会の最盛期、2004年当時の天井次夫氏

ベンチャーの「導師」天井次夫氏逝く

金銭感覚はシビアに、だが驕るなかれ――それがベンチャーの要諦と教えた。自らも創業地、日暮里を忘れず、バブルに踊らず、異端起業家の「後ろ盾」に徹した。官民の既得権層に踏まれても踏まれても、地下茎が大きく育ったことは確かである。=有料記事、約6500字

内装工事などを手掛けるインターライフホールディングス(東証スタンダード・旧日商インターライフ)の創業者で、異業種交流会の「日本ベンチャー協議会」を立ち上げて起業家育成に力を入れるなど「ベンチャーの導師」として知られた天井次夫氏が、進行性がんのために11月22日、亡くなった。73歳だった。

食道がんを経験したこともあって健康には留意しており、今春行った健康診断でも異常はなかった。しかし体がだるく微熱が続いていたため、8月末に病院で検査を受けたところ胃に大きな腫瘍が発見され、転移もしていた。幸い痛みはないものの、食欲がなく点滴で栄養補給。急きょ始めた抗癌剤治療も効くことはなかった。

新井将敬自殺で「渦中の人」に

天井氏が注目を集めたのは、1998年2月に自殺した新井将敬代議士の取り巻きのひとりとしてだった。当時、旧四大証券と旧第一勧業銀行による総会屋に対する利益供与事件が、旧大蔵官僚を経て政界に延びるといわれており、「渦中の人」となったのが旧日興証券から利益供与を受けたとされる新井氏。その新井氏を囲む会が「B&B(ベスト・アンド・ブライテスト)の会」で、マスメディアは「秘密投資クラブ」とはやし立てた。天井氏は「B&Bの会」の中心メンバーだった。

筆者は当時、B&B取材をきっかけに天井氏と知り合い、以降も関係を継続させてきたから付き合いは四半世紀に及ぶ。

天井氏は当時、「事業は50歳までにやめる」と広言、実際、日商インターライフの経営は1999年、会長に退いてから後継者に委ね、自身は2000年に経営コンサルタントで投資会社でもあるバリュークリエーションを立ち上げ、そちらにシフトした。

「B&Bの会」は事件後、「SK21」と名称と形態を変えて再スタートを切り、それを発展させたのが「日本ベンチャー協議会」だった。最盛期に所属企業は400社を超え、上場企業は50社に及んだ。

08年3月に幕を閉じるが、その時点で会長がフルキャストの平野岳史会長(肩書は当時・以下同)で、副会長が楽天の三木谷浩史会長兼社長、光通信の重田康光会長、USENの宇野康秀社長、レックス・ホールディングスの西山知義会長の4氏だった。実質的な仕切りは天井氏が行っており、ドン・キホーテ(現パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス・PPIH)の安田隆夫社長、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄会長といった天井氏と同世代のベンチャー経営者は顧問的立場に回っていた。

そうそうたるメンバーである。互いにライバルとなることもあるベンチャーがこれだけ集ったのは、1990年に40歳で日商インターライフを店頭公開させて以降、異業者交流会の「SKC(新世紀経営者倶楽部)」を立ち上げるなど、「楽しいことを仕掛けるのが好き」という天井氏のオープンで人好きな性格によるものだろう。

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