百間外伝 第16話
実は私は猫が好きではない
忽然と消えた飼い猫に、これほど深く哀しみ、気を揉み、チラシをまき、諦めがつかなかった『ノラや』の百間は尋常ではない。意外と邪慳にしていた野良猫に、何の幻影を重ねていたのか。=有料記事、約1万5200字
野良猫ノラ
昭和30年4月、阿房列車の最後の旅が終わった。
それからしばらくすると、野良の子猫が百間宅に居つくようになる。
「家内が柄杓を振つて追つ払はうとしたら、子猫の方では自分に構つてくれるものと勘違ひしたらしく、柄杓の運動に合はして、はずみをつけてぴよいぴよいとすつ跳んだ向うの、葉蘭の陰の金魚のゐる水甕の中へ、自分の勢ひで飛び込んでしまつた」(「彼ハ猫デアル」『小説新潮』昭和三十一年二月号)
可哀想にと食べ物を与えたのが始まりだった。
世話するうちに情がわいてくるが、百間宅には、メジロが2羽、アカヒゲが1羽いたので、座敷に入れるわけにはいかない。小石川老松町に住んでいたころ、寄席に行った間にヒヨドリが野良猫に食い殺されたこともあった。やむなく物置に寝床を作り、食べ物もそこで与える。名前も文字通りノラにした。
お隣の縁の下で生まれた猫で、母猫もいっしょにいたが、百間宅で面倒を見てくれると思ったのか、いつのまにか姿を消した。
ほどなく幼いノラは風邪を引く。
「大磯の吉田茂さんの所へ出掛けた少し前に、ノラが風を引いて可哀想で大騒ぎをしてなほしてやつたその時、こひがノラを抱いてばかりゐたのがきつかけにて、こつちで住む様になつた」(百間日記・32年4月8日)
吉田茂元首相、内田百間、徳川夢声による鼎談は、昭和30年10月25日に行われた。
台所で食べ物を与え始めると、風呂桶の台の上で寝ることも覚え、ノラという名の家猫になっていく。
翌31年の5月からは、百間の日記にも登場する。
「昨夜はノラが、がりがり襖を引つ掻くので、二時前三時前四時前と三度も起こされた」(同・31年5月23日)
「今日もノラが四時半に襖を引つ掻いたので目がさめて、その後中中寝られなかつた」(同・5月29日)
その日は百間の誕生日で、摩阿陀会が開かれる。
5月31日には、平山三郎とともに八代へと旅立った。阿房列車終了後も八代には4回出かけていて、その最初である。
いつものように松浜軒で2泊したが、その間ずっと大雨に祟られ、欠伸を繰り返す合間に『夜の周辺』の跋文を書いた。
帰京して3週間後、再びノラが騒ぐ。
「六時少し前、ノラががりがり引つ掻く音で目がさめた。又寝しようとしてゐる所へ、六時半NHKより、宮城が名古屋の手前の刈谷で列車から落ちた事を知らせて来た、七時十五分なくなりたる由」(同・6月25日)
宮城道雄の事故を知らせたのであろうか。
こののち「ノラ」ではなく「猫」になる。
「朝は猫が騒いで目がさめた」(同・9月9日)
「六時半起十八度、連日この時間の前後に猫が起こす也」(同・10月22日)
11月には再び八代に向かった。東京博多間に特急「あさかぜ」が運行開始となったからで、初乗りを目的とした旅だった。
すでに三畳御殿の建増工事が始まっていて、12月半ばには完成する。6畳の座敷が増築され、物置も新たにした。費用は文藝春秋新社からの前借りで賄う。
32年2月には、門の標札ができあがる。
「午後平山来、諸用也、内門の門柱に打ちつける瀬戸物『日没閉門』の標札も持つて来てくれた。すぐに打ちつけた」(同・32年2月2日)
「日没閉門」の上には並列に「春夏」「秋冬」と、下にも並列に「爾後ハ急用ノ外オ敲」「キ下サイマセヌ様ニ」と書いてあった。「しまひの所を、猫ノ外オ敲キ下サイマセヌ様ニとしようかと思つたが止めた」と、のちに記している。
3月6日には『小説新潮』5月号の原稿「一本七夕」を書き上げた。店童中野久雄への追悼文である。
少しして次号の執筆に取りかかる。
「夕来月号の小説新潮の原稿を書き始む。題未定、ノラの成長の事也、半枚」(同・3月26日)
翌日であった。
ノラが失踪したのは。