朝日新聞社の社主・村山美知子さんが九九歳の天寿を全うした。主治医が確認した死亡時刻は三月三日午前〇時一二分。その一時間ほど前の二日午後一一時一五分ごろ、入院していた病室で、付き添いの女性が美知子さんの体の向きを変えようとしたところ、そのわずかな衝撃で息が止まった。身内として、ただ一人で最期を看取った甥の村山恭平さんは「伯母は枯れ木が朽ち折れるように、静かに旅立った」と話した。
『最後の社主朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム』
この長いタイトルの本を書いたきっかけは、二〇〇七年春に遡る。私が三〇年近く在籍した朝日新聞社の編集局を離れ、同社の社主だった村山美知子さんの「お世話係」になった頃のことである。当時、美知子さんは八六歳。神戸・御影の広大な邸宅に一人で住み、朝日新聞社の全株式の三分の一を超える株を所有していた。その相続予定者で、甥の村山恭平さんの動向に世間の注目が集まり、週刊誌などでは恭平さんが相続税の原資を調達するため、株式を外資に売却する可能性まで取り沙汰されていた。私は「お世話係」をしながら村山家と朝日新聞社の動向を記録し、世に問う時が来るかもしれないと考えていた。
しかし、一三年の歳月を経て、出来上がった本は、村山美知子さんの一代記であり、村山家側から見た「朝日新聞社のもう一つの歴史」となった。視点を変えた理由は、美知子さんの人柄と過酷で華やかな人生に魅せられ、朝日新聞社側の「経営の論理」に基づく冷たい対応に憤りを感じたからである。
父が解任された六四年「村山騒動」
村山美知子さんは、朝日新聞の創業者で新聞王と呼ばれた村山龍平氏の初孫として生まれた。母の於藤さんは龍平氏の一人娘。父の長挙氏は岡部子爵家から婿入りした旧華族だった。
いわゆる「村山騒動」をご存知だろうか。村山龍平氏から経営を引き継いだ長挙氏は戦後、公職追放から復帰して社長に就任した。長挙社長は、社の経営方針を巡って対立した役員について、株主総会で採決によって退任に追い込んだが、反撃にあい、一
九六四年一月の取締役会で社長の座を解任された。以来、半世紀にわたり、村山家と朝日新聞社は緊張関係にあった。私が美知子さんの「お世話係」になった二〇〇七年の時点でも、その「延長戦」が続いていたのである。
朝日新聞社と村山家との関係は、幾重にもねじれていた。会社側は創業者・村山龍平への尊崇の念があった。一方で、経営権をめぐり村山家との死闘の過去があった。二〇〇七年の時点で、美知子さんが持つ朝日新聞社株は三六・四%、妹の富美子さんが持つ朝日新聞社株は八・五%、もう一つの社主家である上野家の持つ一九・五%の株式を合わせると六四%にも達する状態だった。当時、村山、上野両家が手を結ぶ動きもあったので、経営側が危機感を抱いたのは当然だった。朝日新聞社は村山家に対し、腫れ物に触るように丁重に接し、恭平さんの言動や行動に細心の注意を払いつつ、村山家の人たちに株式を手放させる方策を探っていた。その尖兵として送り込まれた一人が、私だった。
「村山美知子社主から全幅の信頼を得るようにしてくれ」
「しかし、決して警戒を怠らないように」
私は、美知子さんの「お世話係」を務めるにあたり、相矛盾する二つの使命を理解しなければならなかった。
着任した頃は、警戒心が先に立った。私が長く在籍した大阪本社には、以下のような「村山家伝説」があったからである。
・美知子さんは超わがままな「御影の女帝」である。
・村山家にとって、記者たちは下僕扱いで、茶会で下足番をさせられる。
しかし、私が接した「八六歳以降の美知子さん」には、「伝説」を感じさせるような振る舞いはなかった。お嬢様育ちで多少わがままなところはあったけれど、心優しく、ユーモア好きで、威厳を備えた、上品なおばあちゃんだった。
とはいえ、村山美知子さんの信頼を得るのは並大抵のことではなかった。村山邸に通い始めた後、普通に会えるようになるまでに約一カ月かかった。
美知子さんは社の創立記念日の式典、フェスティバルホールでのコンサート鑑賞などの際、大阪・中之島のリーガロイヤルホテルに宿泊した。その場合、車椅子生活だった美知子さんのために神戸・御影の村山邸からポータブルトイレを運び込まなければならなかったのだが、私の補佐として世話係となった社員の一人は「社主のポータブルトイレを運ぶために朝日新聞社に入ったのではない」として協力を拒否した。彼の気持ちも理解できたので、他の部署に替わってもらった。私は、ホテルの部屋でポータブルトイレの温水噴射機能を調整中に、ノズルから噴射した水で顔や衣服を濡らしたこともある。それぐらいのことは覚悟しなければ、美知子さんの信頼は得られないと考えていた。
二〇〇七年に株式譲渡の「決断」
私は、そうした努力をしつつ、美知子さんが所有する株式の譲渡問題にも関わることになった。
最初は二〇〇七年秋、美知子さんは顧問弁護士の説得に応じ、所有する全株式を朝日新聞文化財団に寄贈する提案に同意した。東京と兵庫・芦屋市からやって来た二人の弁護士が村山邸の応接間で美知子さんに会い、二〜三時間にわたって話し合う場面を、私は隣室から見守った。その時は、話し合いの内容を知る立場になく、美知子さんが「大事な決断」をしたことしか分からなかった。しかし、その直後から、美知子さんの側近とされる人物たちが慌ただしく動いた。美知子さんは、最も信頼していた故古澤弘太郎氏の説得に応じ、上記の二人の弁護士との顧問契約を破棄し、全株式譲渡の同意を白紙に戻した。
後に親しくなった古澤氏は、こう述懐していた。
「私の人生で一番大きな仕事は、あの時、美知子さんを説得し、弁護士たちの案をひっくり返したことだ。弁護士たちの背後には朝日新聞社がいた。あの案では、資本側(村山家)が経営側に譲歩しすぎだった。あれでは、村山家が何のために長年、経営陣と闘ってきたのか、意味がわからなくなるような案だった」
そのあと、紆余曲折を経て、美知子さんの所有株を三分し、三分の一をテレビ朝日に売却、三分の一を香雪美術館に寄付、残りを美知子さんがそのまま持ち続ける案がまとまり、二〇〇八年六月に実行された。この結果は、当時新聞などで公表された通りである。
村山家側が経営側の説得に応じた背景には、相続に伴う税負担の問題があった。母親の村山於藤さんが一九八九年三月に死去した際、美知子さんは巨額の相続税の支払いを免れた。そのことで、朝日新聞社側は美知子さんに大きな恩を売り、その後の株式譲渡につながったのだと思う。
その「節税」の経過を説明すると、こうなる。
美知子さんは相続によって、朝日新聞社の株式の三五%を超える株主となるため、「支配的な同族株主」とみなされる可能性があった。その場合、朝日新聞社の資産そのものが相続税の対象(総資産課税方式)となるため、巨額の相続税を支払わなければならなくなる。実際には、国税当局は、類似の業種の同規模の企業の株価などを参考にする「類似業種比準方式」を適用する方針だったとされる。その場合でも、同業会社の株価を基準に相当高額な相続税の支払いを求められる可能性が高かった。
しかし、会社の助言に従い、美知子さんが納税したのは「配当還元方式」で計算した金額だった。「配当還元方式」は、所有株式の配当金の一〇年分を相続株式の価値とみなす方式で、一株あたりの配当額が低い朝日新聞社の場合、納税額を低く抑えることができる。美知子さんが「配当還元方式」で納税することについて、朝日新聞社は国税当局との間でどんな交渉をしたのか。村山恭平さんは当時の役員の名を挙げ、「根回しをしていただいたと聞いている」と話した。
秋山社長が勧めた遺言書に義憤
歴代の社長たちがどんな手練手管を使って、村山家に持ち株を手放させようとしてきたのか。本では、私の知り得る範囲で書いた。
さて、私の心の中に朝日新聞社への不信の念が芽生えたのは、株式の三分割案に連動する形で遺言書が作成されたことを知った頃である。
二〇一二年春。私は出向先のカルチャーセンターから再び、美知子さんの「お世話係」に戻り、秋山耿太郎会長(当時)から、美知子さんの遺言書について説明を受けた。遺言書は、株式を含む全財産を香雪美術館に遺贈する内容で、その後、美知子さんの希望により、妹の富美子さんと甥の恭平さんにもある程度の現金が相続されるように書き換えられた、とのことだった。
美知子さんをどのように説得したのか。
「(三分割した株式のうち)テレビ朝日への株式売却は、上場会社で手続きに時間がかかります。その間に万が一のことがあっては大変なので、遺言書を書いておけば安心ですよ」
秋山氏らが、このように持ちかけたのだという。
香雪美術館は村山龍平氏が収集した古美術品などを所蔵・公開しており、美知子さんが理事長を務めていた。美知子さんは、香雪美術館を村山家そのものと考え、同意したに違いない。しかし、会社側は、美知子理事長の後の役員を村山家から選ぶことは考えなかった。その頃、秋山氏は「恭平さんが香雪美術館の理事になることは悪夢だ」と話していた。事実、香雪美術館は理事・評議員の選考委員会を設け、恭平さんの美術館入りを阻止できる仕組みにした。
さらに、秋山氏らは、遺言書作成と連動して、村山家の養子探しを始め、私に「養子候補を見つけてほしい」と指示した。美知子さんが「恭平は社主の器ではない」と考え、「社主を継げる養子」を別に求めていたからだ。「ご養子が決まれば、遺言書を書き直してもらい、財産はご養子に行くようにします」と美知子さんを安心させようとしたのである。
梯子を外された養子探し
私は、秋山氏の指示により、養子候補探しに奔走し、美知子さんの父・長挙氏の出自の旧子爵家に連なる夫婦と娘二人の養子候補を見つけた。この家族は村山邸に何度も通い、美知子さんも気に入った様子だったが、縁組みは頓挫した。秋山氏は「恭平さんが(二〇一三年秋に)朝日新聞社の株をすべて売却したことは知っているね。朝日新聞社にとって、村山家の問題は解決し、養子についての関心も薄れている。そういう流れにあることを、君も理解すべきだ」と話した。私は、梯子を外されたのだ。養子候補の家族に大変迷惑をかけ、美知子さんの心を惑わせるだけに終わった。
その後、私は美知子さんに安らかな晩年を過ごしてもらうため、全力を尽くした。二〇一五年夏、美知子さんは肺炎のため、大阪市内の病院に緊急入院した。以来、四年半にわたり入院生活が続いた。その間、私は著名な指揮者の井上道義、佐渡裕、小澤征爾の各氏に声をかけ、美知子さんを見舞ってもらった。美知子さんはかつて大阪国際フェスティバルを主宰し、国内外から多数の音楽家を招聘していた。三人の指揮者は、キャリアのスタート時などに美知子さんの手厚い支援を受けていた。
このうち小澤氏は美知子さんを抱擁し、首元にキスをし、号泣した。「ミッチー(美知子さんのこと)は誰よりも親身に世話をしてくれた。太っ腹で芸術を愛する素晴らしい人だった」と話した。
村山美知子さんは朝日新聞社の象徴天皇のような存在だった。「編集方針に干渉しない」とある社主規定を守り、ひたすら朝日新聞社の繁栄を祈り続けた。
二〇一八年の秋以降、美知子さんはほとんど意識がない状態が続き、言葉を発することはなかった。病院側の特別待遇による手厚い医療・看護を受け、細く長く命をつないでこられた。訃報の後、私も病室に駆けつけ、「本当にご苦労様でした。これで自由になりましたね」と、心の中で声をかけた。■