亡命「中国人スパイ」と米豪台諜報網
香港区議会選挙前日の絶妙のタイミングでカミングアウト。 ボスだった夫妻も台湾で拘束、3ヵ国情報機関共同作戦の可能性。 中国軍フロント企業の米軍事技術窃盗など、全貌はまだ水面下に隠れている。
平時は決して正体を現わさない情報機関のエージェントが、海外に逃亡してメディアのカメラの前に素顔を晒し、祖国による秘密工作の数々を暴露する――。2013年の「エドワード・スノーデン事件」を彷彿させる驚嘆すべき“カミングアウト”が波紋を広げている。震源地はオーストラリア。主役は中国のスパイを自称する王立強という30歳前後の青年だ。
2019年11月23日、豪州の民間メディア最大手のナイン・エンタテインメントは傘下のテレビ報道番組「60ミニッツ」、日刊紙の「シドニー・モーニング・ヘラルド」、同「ジ・エイジ」の記者らによる共同取材を通じ、王が豪情報機関の保安情報機構(ASIO)に接触して政治亡命を求めているとスクープ。さらに王を直接インタビューして秘密工作の内幕を自ら語らせ、中国スパイの「静かな侵攻」の脅威をセンセーショナルに伝えた。
香港に中国軍のフロント企業
ナインのスクープを受け、関係国のメディアは一斉に追跡取材を開始。一連の報道によれば、王は14年から5年間、中国中央軍事委員会連合参謀部(旧人民解放軍総参謀部)の情報工作部門が香港に置くフロント企業で働いていた。王のボスだった向心は中国軍の情報将校で、表向きは香港の上場企業「チャイナ・イノベーション・インベストメント(CIIL)」の経営トップを務め、同社を隠れ蓑に香港、台湾、豪州などへの秘密工作を指揮。さらに向の妻の龔青も中国軍のスパイで、台湾の選挙に干渉する工作の責任者だったという。
王は実際にどんな秘密工作に従事していたのか。とりわけ大きな反響を誘ったのは、王が香港の「銅鑼灣書店」の株主だった李波を拉致して中国本土に移送した工作への関与を認めたことだ。銅鑼灣書店は「一国二制度」により言論・出版の自由が認められた香港で、中国の最高指導者の習近平国家主席(兼共産党総書記)を含む党幹部のゴシップや共産党の強権政治への批判を書き立てた「禁書」を販売していた。
ところが15年10月から12月にかけて、書店の株主や店主ら5人が次々に失踪。後に全員が中国本土で当局に拘束されていることが明らかになった。また、5人のうち4人は失踪時に中国本土やタイにいたが、李だけは香港で行方不明となり、中国の特務機関に拉致されたとの噂が絶えなかった。
王の証言はこの噂を裏付けるものだった。拉致の現場にはいなかったものの、ボスの向からの命令を実行部隊に伝える役割を担ったという。
折しも香港では、学生や市民による大規模な反政府デモが19年6月から半年以上にわたり続いている。きっかけは同年2月、香港政府が「逃亡犯条例」の改正案を提出し、刑事事件の容疑者の身柄を中国本土に移送可能にしようとしたことだ。成立すれば、中国当局が反体制的な香港市民を容疑者に仕立てて合法的に拘束する可能性が否定できなかった。
言い換えれば、銅鑼灣書店の5人が味わったのと同じ恐怖が誰の身に降りかかっても不思議ではなくなる。それに対する強烈な不安と怒りが、何十万人もの香港市民をデモに駆り立てた(注:香港政府は19年10月に改正案を撤回)。銅鑼灣書店拉致事件は香港の反政府デモのルーツだけに、中国当局による拉致を認めた王の告白は極めて重い。
それだけではない。王は香港の大学で学ぶ中国本土出身の留学生をリクルートし、学生団体などに潜り込ませて反体制活動家の情報を収集。彼らの家族を含む個人情報をネット上に晒すなど、陰湿な手段による口封じを図っていた。
下っ端スパイでも情報に価値
台湾では「網軍(サイバー部隊)」を組織し、SNSなどのネット世論を操作。台湾総統の蔡英文ら独立派の与党・民進党の政治家を攻撃するとともに、親中派の野党・国民党の政治家を後押しする狙いだ。その結果、18年11月24日に行われた統一地方選挙で国民党の大勝に貢献したという。台湾のメディア、宗教団体、市民団体などに協力者を潜入させ、資金提供も行っていた。
さらに王は、豪州の政党や国会議員に多額の献金をしていた中国人ビジネスマンの黄向墨が、香港のCIILのオフィスで向心と会っていたことも明かした。黄は数年前からASIOがスパイ容疑でマークし、19年2月に豪州への再入国を拒否され永住権を剥奪されたいわくつきの人物だ。CIILでは、米軍の最新兵器に関する技術情報の収集も組織的に行っていたという。
王はなぜスパイであることを自ら明かし、秘密工作の内幕をメディアに暴露したのか。王には彼の任務を知らない妻と2歳の息子がおり、妻は幼子を連れて豪州に留学していた。19年4月、王は妻子を訪ねるため観光ビザで豪州に入国したが、翌月、ボスの向から新たな任務の指令が届く。それは中国軍の技術研究所が偽造した韓国および中国のパスポート、香港の身分証の3通を使い、名前を変えて台湾に潜入、20年1月11日の台湾総統選挙への干渉工作を命じるものだった。
「自分の真実のアイデンティティを永遠に失うかもしれないという恐怖が(政治亡命を求めた)動機のひとつだ」。王はナインのインタビューでそう語っている。推測だが、向は王に台湾潜入を命じると同時に、過去を消すために妻子との絶縁を迫ったのではないか。王はそれが耐え難かったが、命令を拒否すれば暗殺される危険がある。追い詰められた王は自分と妻子の身の安全を確保するため、機密情報の提供と引き換えにASIOに保護を求めた可能性がある。
もちろん、王の証言は真実とは限らず、名前さえ実名かどうかわからない。情報機関の内情に詳しい専門家の間には、「投降したスパイは自分の価値を高めて政治亡命を確実にするため、情報を膨らませて供述するのが常。王の証言も事実と嘘を慎重に見極めなければならない」との指摘がある。また、王は中国のスパイ養成機関で訓練を受けた正規の工作員ではなく、その指令を受けて動く「下っ端」に過ぎず、証言にたいした価値はないとの見方もある。
だが、少なくとも王の証言の一部は真実であり、その価値は大きいことを窺わせるファクトがある。ナインのスクープの直後、豪州政府と中国政府がそれぞれ見せた異例の動きである。
報道の翌日の11月24日、ASIO長官のマイク・バージェスは声明を出し、「ASIOは(ナインが報じた)これらの問題を以前から認識しており、捜査を積極的に進めている」と明言。さらに「外国による敵対的な諜報活動は、我が国の安全保障に対する現実の脅威となっている。ASIOは外国の干渉や諜報活動に立ち向かい反撃し続ける」と、中国を名指しこそしないが対抗姿勢をあらわにした。そもそも情報機関のトップが声明を出すこと自体が尋常ではなく、王の証言に高い価値があることを示唆している。
一方、中国政府の反応はもっと素早かった。報道当日の23日、上海市公安局がウェブサイトで一枚の通知書を公表。そこには「海外メディアが報じた中国のスパイを名乗る王立強は、16年に詐欺罪で執行猶予付き有罪判決を受けた逃亡犯である」、「19年2月に自動車輸入の投資話をでっち上げ、束という姓の人物から460万元(約7130万円)余りを騙し取った容疑があり、公安局が4月19日から捜査を始めた」、「4月10日に偽造の中国パスポートを使って香港に出境した」などと書かれていたのだ。
中国外務省報道官の耿爽は、この通知書を根拠に「王は詐欺容疑の逃亡犯」だと断じ、中国のスパイだとする海外の報道を「中国脅威論を煽るための出来の悪い茶番劇」とこき下ろした。だが、自国にとって不都合な情報が海外で報じられた時、中国当局は根拠を示さず「デタラメ」などと一蹴するのが通常だ。公安局の通知書が間髪を入れず“出現”した事実自体が、中国当局の狼狽と焦りの表れである可能性が高いと言える。
海外報道に奇妙な抜け落ち
なお、その後の検証を通じて、16年に有罪判決は受けた王立強は同姓同名の別人という見方が浮上している。
また、公安局の通知書にある詐欺の被害者だという人物はフルネームを束辛といい、シドニー在住の中国系ビジネスマンであることが豪メディアの取材で確認された。束は政党への不正献金に係わった疑いで豪州の反汚職当局の調査を受けており、先に触れたASIOに国外追放された黄向墨と親密だった事実も明るみに出た。
ところで、王立強に関する日本メディアの報道は当事国ではないせいか積極性を欠き、王の証言やその影響に対する深い考察は皆無に近い。中国を除く海外メディアの報道も証言の真贋や中国の脅威に焦点を当てたものがほとんどで、奇妙なことに、ある重要な視点がすっぽりと抜け落ちている。
それは、王はそもそも西側の二重スパイではないかという仮説。あるいは豪州の防諜活動だけでなく、米中央情報局(CIA)を含む西側のインテリジェンス・コミュニティが中国に仕掛けた“攻め”の諜報戦に協力しているという推定だ。
もちろん実証は難しいが、そのような視点で改めて俯瞰し直すと、単なる偶然とは思えない興味深いサインが見えてくる。
例えば、王が正体を現わしたタイミングだ。「中国スパイの亡命申請を知ったのは10月初旬のことだった」。豪州の政策シンクタンク、戦略政策研究所のアナリストでナインのスクープ報道の事前検証に協力したアレックス・ジョスケは、研究所ウェブサイトへの投稿記事にそう書いている。これが事実なら、王は遅くとも10月初旬より前にASIOに接触していたことになる。
にもかかわらず、なぜスクープの公表は11月23日だったのか。証言の精査や番組制作に時間がかかるとはいえ、時期を多少早めることも、逆にもっと遅くすることもできたはずだ。
実はスクープ当日、王のボスだった向心と妻の龔青は台湾におり、25日に桃園国際空港から出国しようとした際に台湾司法当局に拘束された。その後2人は釈放されたが、出国を禁じられ台北市内のホテルで厳しい監視下に置かれている。
この事実は、豪州と台湾の情報機関がCIAの仲介などにより情報を共有し、向が台湾を訪れるのを待って王をメディアに登場させ、中国の大物スパイを捕らえた可能性を強く暗示している。
権力闘争に敗れた指導者も監視
また、11月23日は香港の区議会議員選挙の前日でもあった。香港政府がもはや選挙実施を延期できないぎりぎりのタイミングで、王が銅鑼灣書店拉致事件への関与を告白したのだ。香港市民の怒りが高まり、民主派候補の得票に有利に働くのは明白で、選挙結果は予想を超える民主派の大勝に終わった。中国当局は西側が仕掛けた罠でスパイ拠点の指揮官を失い、そのうえ香港の選挙に干渉されたと地団駄を踏んでいるかもしれない。
興味深いサインはまだある。ナインのスクープ報道をつぶさに見ると、記者たちが王から得た証言の一部が意図的に伏せられた形跡がある。19年12月3日、米保守系紙のワシントンタイムズは、王がASIOに提出した供述書の写しを入手したとし、中国軍がフロント企業のCIILを通じて米国の軍事技術をいかに盗んでいたかを報じた。
また同じ記事の中で、王らは中国共産党内の権力闘争に敗れた指導者を監視する任務も担っていたとし、王が係わった実例として前国家副主席の李源潮の親族に対する脅迫を挙げた。
この記事の筆者はCIAに深く食い込んでいることで知られる名物記者のビル・ガーツだが、軍事技術窃盗に関する部分はナインの報道よりも詳しく、指導者の監視に至ってはナインは一言も報じていない。その理由はおそらく、情報源と目されるASIOの意向を汲んだからだろう。逆に言えばガーツもまた、CIAとの黙契により入手した情報の全ては書いていないはずだ。
王の寝返りをテコにした西側情報機関の諜報戦は続行中であり、「ボスキャラ」の登場はまだこれからかもしれない。今後の展開を予想するのは極めて難しく、「対岸の火事」だと思い込んでいる日本にも予期せぬところから飛び火しないとは言い切れない。事態の推移を刮目して見守るべきだ。(敬称略)■