危うし「赤ずきん」、どこも誘惑の狼

闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【15】

危うし「赤ずきん」、どこも誘惑の狼

羽田に凱旋帰国した伊東絹子の争奪戦で、発足したてのファッション・モデルのクラブに亀裂。目玉の絹子が抜けて、光子は営業にひと苦労。パンナムの機内ショーや、本尊ディオールの日本招待など工夫を凝らすが、下心のある企業人たちが、あの手この手で誘いをかけてくる。 =敬称略、一部有料

 

第Ⅲ部おそるべき君等の乳房3

 

ミス・ユニバース三位の勲章を引っ提げて、伊東絹子がアメリカから帰国するまで3カ月もかかった。コンテストのあと、入賞者はスポンサーのユニバーサル映画に出演しなければならず、ハリウッドに足止めされていたのだ。

帰国当日、羽田飛行場はカメラの放列だけでなく、降りてくる絹子の奪い合いになった。彼女を送りだした「ミス日本」の主催者、産経新聞や東宝、新東宝、松竹の映画3社も、手ぐすね引いて待っていた。

光子たちも指をくわえてみていられない。出迎えの車を用意したが、脱退したTFMCも迎えの車を出していた。絹子はどちらに乗るのか。

羽田の争奪戦、FMG命名で亀裂

脱藩組の副将格、相島政子が一計を案じて、NDCのドン木村四郎を出し抜いた。絹子の委任状という切り札をちらつかせて、ライバルの迎えの車を引き下がらせ、絹子と二人で仲良く車に乗りこんだのだ。

丹羽の小説では、相島としめしあわせていたカメラマンの早田雄二が「こういうものがあるんですがね」と羽田で関係者に見せびらかしている。ところが、この委任状は相島が書いた偽文書。本人には事後承諾という算段だった。絹子は優柔不断な性格だから嫌とはいえず、車に乗ったのは恩人の相島の顔を立てたにすぎない。

この相島の奇略には、大将格の光子まで出し抜かれた。ほとぼりがさめるまで、絹子を郷里の青森で匿うつもりでいたが、相島がその筋書きの裏をかいて連れ去ったのだ。光子は悔し紛れに、絹子の荷物だけ車で運んだ。これが尾を引くことになる。

脱藩組は新たに結成したクラブに「ファッション・モデル・グループ」(FMG)と命名した。この名も揉めた。アルファベットのFMGではよくわからないと、仲間は「マグノリア会」「クラブリリー」「グルッペの会」「幸せのクローバー会」「ひまわりグループ」など、あれこれ甘ったるい名をあげた。カメラマンの大竹省二が書いた『遥かなる鏡――ある写真家の証言』では、名称の発案者を相島としているが、光子は首を振る。

「命名したのは私ですよ。相島政子は『芙蓉の会とか、アゼリアだとか花の名前がいい』って言ってたけど、私は『時代は変わっていくんだから、英語の頭文字だけでいい時代になる』と譲らなかった。みんなぽかんとしていたけど決めちゃった。それで今度はラジオに行って事情を話して、FMG、FMGって毎日連呼してもらった。だって私は、芸者と同じにモデルも鑑札を持たなくちゃ仕事ができないような組織をつくったわけですから」

うらべ・まことの『流行うらがえ史』がこれを揶揄している。NDC=名前を・出したい・仕立て屋。FMG=不平・モデルが・ガーガー。TFMC=たった・二人・まだ・ここ――と。

FMGは日本橋の日本広研に事務所を設け、独り立ちしたと思ったのもつかのま、看板のはずの絹子がFMGを飛び出してしまう。羽田での遺恨もあり、森貝と相島の間がぎくしゃくしていたからだ。

相島は「森貝さんが荷物を無断で持っていくような横暴をしたから」と非難すれば、森貝側も「昔の恩をカサに着て、相島側が伊東絹子を食いものにしようとした」とやり返す。モデルクラブの分裂騒ぎも一段落したかと思えたが、元の木阿弥だった。

行きはよいよい……羽田飛行場で笑顔で送りだしたモデル仲間たちだったが
(中央で花束を持つのが伊東絹子、前列左端が光子)

「相島さんはトンカツ屋のお嬢さまで、それはやり手だったのよ。私のような田舎者じゃないから、ピンハネもするし。絹子さんもあれだけみんなで応援してアメリカに出してあげたのに、帰ってきたら、全然知らんぷりですものね。10万円ずつだしたカンパも、私には戻ってこなかった。FMGの20周年記念の催しでは、私に目をかけてくれた山野愛子さんがおっしゃるの。『森貝さん、あなたがFMGを最初につくったことは、私たち全員が知ってることよ。相島さんに勝手に生みの親を名乗らせてどうするの。あなたが出てちょっと挨拶なさい』って。挨拶に出ようとしたら、横からマイクを取られて、愛子先生は怒っていたわ。あんた、しっかりなさいって」

市川崑の映画で「大根」さらす

絹子は再三、映画に出演しないかと勧誘され、結局、東宝に入社して女優をめざした。デビュー作は市川昆監督の『わたしの凡てを』(1954年)である。

姉を探して東京に出た主人公(絹子)が、サラリーマン(池部良)と愛しあいながら、主人公をモデルに絵を描く画家(上原謙)にも愛されるというメロドラマで、絹子のライバルの女社長に、市川監督の愛人だった有馬稲子が出ているのがご愛嬌だった。主人公がファッション・モデルになり、ミス・ユニバースに旅立つという結末は、明らかに絹子をあてこんでいる。

だが、ひどい出来だった。さすがに三浦光雄カメラマンはモノクロの凝った映像に仕立てているが、絹子の美貌だけではどうにもならない。演技力のない絹子の大根ぶりばかりが目立つ失敗作で、観客もがっかりした。

「あの映画はね、モデルの同僚役で私もちらっと出たのよ。『君は見込みがあるから、もう一遍ぐらい出したい』って言われて、あと一本出たかしら。やっぱり寂しい映画でね。映画の撮影って、とにかく待たされて、待たされてなの。私は苦手でしたね」

伊東絹子も映画は苦手と自覚したのだろうか。この第1作で女優業は諦め、モデルに舞い戻ることになる。

市川崑監督『わたしの凡てを』の池部良と伊東絹子

「彼女はね、何をやってもやり通せない人なの。家庭が複雑過ぎちゃって、お金持ちだったか何だか知らないけど、とにかく何にもやる気のない方でしたよ。背が大きいから、目立ったからでしょうけど、モデルをやるにしたって、何をするにしたって、目に力がないんだもの。目に若さがない、青春がない、喜びがない、もう何でも投げやりな人でした。喋る内容なんか、何もありゃしない。絹子さんはどこか体が悪かったのね。しょっちゅうどこが悪い、ここが悪いってこぼしていた。食事に行ってもすぐ横になる。『ちょっと寒いから、後ろの襖を閉めてちょうだい』とか言い出す。何だか甘ったれっていう感じでしたよ。だけど、ああいう物憂そうなところが、男性にはよく見えるんでしょうね」

相島は文藝春秋の記事で絹子をこう語っている。「もともとしっかりしていましたが、一回りも二回りも大きくなって帰国してきました。それからあらゆることを勉強しはじめました。とくに語学に熱を入れまして、世界に出たいと考えていたようです」

そんなきれいごとであるはずがない。相島が語らなかった事情がある。光子の語る絹子像は違う。

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