「八頭身美人」絹子とモデルの団交

闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【14】

「八頭身美人」絹子とモデルの団交

伊東絹子は戦後日本の光だった。ミス・ユニバース3位の朗報で、モデルが一気に世の花形となった裏で、内紛が起きていた。光子も映画『水着の女王』にちなむコンテストに応募して2位となり、モデルのクラブTFMCでは姉御格。「ファッション芸者」扱いするデザイナー界のドンに反旗を翻す先頭に立った。 =敬称略、一部有料。

 

第Ⅲ部おそるべき君等の乳房

 

よちよち歩きのファッション界に追い風が吹いていた。

1951年6月、英文毎日が紙上でファッションモデルを一般募集した。第3回のティナ・リーサ賞コンテストで、専属モデルに服を着せて歩かせようというのだ。日本ではじめての試みである。

1950、1951年のNDCファッションショー(「むかしの装い」ブログより)

その前月、NDC(日本デザイナーズ・クラブ)が銀座の「キャバレー美松」でファッションショーを開いている。モデルがわりに日劇ダンシングチームやキャバレーの踊り子が出演、ワルツやタンゴのステップで舞台を歩いたという。半裸になったり、ラインダンスが得意な彼女たちには「カクテルドレスや、イヴニングドレスを着こんで、しゃなり、しゃなりと歩くだけの所作は苦手で、どうもピンとこない」(今井田勲)。

英文毎日のモデル公募に2000人

英文毎日のモデル公募は、女性の夢をかきたてた。素人がいきなり、最新のファッションをまとって脚光を浴びるのだ。応募は2000人に達した。それを500人に絞りこみ、最後に東京20人と大阪15人の35人を選んだ。彼女たちは「毎日ファッション・ガール」と呼ばれ、ここに初めてモデルは副業でなく本業になったのである。

1951年の「毎日ファッション・ガール」の審査風景

伊東絹子、相島政子、香山佳子、岩間敬子、椙田真佐子、井村はるみ、伊沢有多子らがいて、日本のファッションモデル「第一世代」を形成した。

彼女たちは約1カ月間、週に3回はダンス教室の伊藤道郎舞踊研究所に通って、キャッツウォークの基礎訓練に励んだ。道郎は銀座の服部時計店を設計した建築家、伊藤為吉の長男で、戦前は海外で活躍していた舞踊家兼振付師である。伊藤熹朔や千田是也(圀夫)の兄であり、その二男は俳優ジェリー伊藤だ。グスターヴ・ホルストの「日本組曲」や詩人W・B・イェーツの「鷹の井」に協力したことで知られている。

モデルのキャットウォークは舞踊家、伊藤道郎が教えた

戦後は、日比谷のアーニー・パイル劇場で舞踊団の芸術監督をつとめていた。焼け残った東京宝塚劇場を米軍が接収していて、沖縄で戦死した米軍兵士の名を冠して1955年まで米軍娯楽施設として運営されていたところである。

占領軍兵士やスタッフのための外国人専用劇場だったから、日本人が1人もいない観客席にむかって、トニー谷のような日本人ボードビリアンやダンサーが連夜ショーを懸命に演じていたことは、斎藤憐の『アーニー・パイル劇場』に詳しい。

夜8時開演だが、『ジャングル・ドラム』などの演目は、道郎が構成と振り付けと演出をひとりで担当した。昼はその出演者を含めた生徒にレッスンを施している。やがて光子ら一期生を追ってモデルになる渥美延もその生徒だった。道郎はそれまでにもファッションショーに生徒を派遣していたから、光子たちが舞台でしゃなりしゃなりと歩くキャットウォークの訓練のために、独特の「ウォーキング・メソッド」を案出してくれたのだ。

NDC傘下でTFMC発足

「毎日ファッション・ガール」の月給は1万5000円。当時の上場企業社員の平均月収が1万円から1万8000円台だったから、大企業のサラリーマン並みの収入を得ていたのだ。

ところが、1952年のティナ・リーサ賞は中止と決まった。モデルたちは宙に浮きかけたが、NDCの木村会長が目をつけた。毎日ファッション・ガールのうち20人をNDC専属モデルにして、春秋2回のNDCショーに出演させる契約を結んだ。そして1953年2月、「東京ファッション・モデル・クラブ」(TFMC)と銘打って、日本初のファッションモデルクラブを立ち上げたのである。

NDC専属だった光子は本来、彼女たちとは別系統だった。すでに日本のデザイナー界では教祖的存在だった伊東茂平の専属モデルにも指名されている。だが、TFMC結成とともに、「毎日ファッション・ガール」からの移籍組と、森貝光子、ヘレン・ヒギンスらNDC専属組が合体することになった。

彼女たちが一期生なら、TFMCになってから入ってきた下町っ子で「ミス日本」「ミス・スタイル」のタイトルを持つ原田良子、渥美延、田中富士子、中島明子、久世泰子らは二期生といえよう。とにかくTFMC結成によって、職業としてのモデル業が認知、確立されたのである。

映画『水着の女王』に憧れて

光子がモデルにのめりこむのは、日本で1952年5月に公開されたハリウッド映画『水着の女王』(Neptune’s Daughter)を見たことが大きい。

『世紀の女王』に続くミュージカル映画『水着の女王』のポスター

水着のデザイナー兼女社長が、自らモデルになって水着姿になり、社内の展示プールに高飛び込みしてみせる映画である。光子の目には、デザイナーからモデルに転身した自分と重なって映った。

主演はエスター・ウィリアムズ。『私を野球に連れてって』(1949年)でジーン・ケリーやフランク・シナトラと共演したヒロインである。

そのエスター・ウィリアムズが映画の宣伝を兼ねて来日し、それを記念して日本の女性を対象にした「ミス水着の女王」コンテストが開かれた。優勝すればアメリカに招待されるという宣伝文句に、2000人以上の若い女性が応募した。光子はティナ・リーサ賞でモデルとなった鈴木佳子からこのイベントの噂を耳にした。

「水着姿にはまったく自信がないけど、ことによったら、ニューヨークにいる姉の愛子に会えるかもしれないという淡い期待もあって、宝くじでも買うような気分で応募してみた」

コンテスト会場の日比谷公会堂の前は、参加者と見物人とでごった返し、警官まで出動して整理に当たる始末。光子がいささか気後れして人ごみに身を預けていると、前から人垣を分けて進み出てきた若い女が声をかけてきた。

「コッちゃん、コッちゃんてば」

驚いたことに、三戸の家で子供のころよく遊んだ松尾という文房具屋の孫娘ではないか。彼女の母親は東京の中曽根という家に嫁いでいた。父も母も百人一首のカルタ取りの大御所で、息子たちはみんな東京の大学に入っている。

「コッちゃん、あなたもコンテスト受けるの?」

懐かしそうな顔で聞いてくる。

「そう、でも、冷やかしよ」

それが光子の本心だった。2人は手をとり合って会場に入り、審査を受けた。思いがけず光子は第2位に入賞し、文房具屋の娘は落ちた。優勝したのはのちにモデルの同僚となる香山佳子だった。

1949年の「ミス水着の女王」コンテストの記念撮影で、左端が2位の​​​​​​森貝光子、
その右が1位の香山佳子、右端が選外になった伊東絹子(光子のアルバムより)

光子はこれで容姿に引け目を感じなくなった。

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