デザイナーとモデル「二刀流」の快挙

闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【13】

デザイナーとモデル「二刀流」の快挙

モンペと防空頭巾よさらば。女性たちにカラフルな装いへの憧れがよみがえった。布地不足で古着を直すしかない。雨後の竹の子のように洋装学校が次々開校し、どこもぎっしりで、型紙を折り込んだ婦人雑誌が飛ぶように売れた。卒業した光子もデザイナーの卵。団体ができ、海外デザイナーも来日、ファッションショーの原型が生まれた。 =敬称略、一部有料。

 

第Ⅲ部おそるべき君等の乳房

 

覚えていますか。西東三鬼のあの句を。

おそるべき君等の乳房夏来る

文化服装学院が復刊した「装苑」の1947年9月号

戦前の「欲しがりません、勝つまでは」への痛烈なアンチテーゼである。おしゃれなど考えることも許されず、地味なモンペと防空頭巾にひたすら耐えてきた女たちが、抑圧から解放され、かんかん照りの青空で、はちきれんばかりの胸をそびやかして闊歩していた。

京大卒の歯科医だった俳人西東三鬼

唾をのみこんで眩しそうにみつめる三鬼の顔、いや、闇市ですれ違う男たちのさもしげな顔また顔が、瞼に浮かんでこないだろうか。

羽仁もと子の自由学園めざして

青山のレディス洋裁学院に通う光子も、胸をはって歩く女の一人だったろう。

「私はわりに手が器用ですからね。女学校の手縫い競争でもずっと先頭。広い講堂で裁ち板にちゃんと印つけたものを、ヨーイドンで縫い始めるんですね。2時間ぐらいで着物1枚縫い上げなくちゃならないの。袖は真面目につけるし、できたと思ったら裏表、居敷当て(単衣の着物の腰の部分につける補強の布地)をつけるから、その先も大変なのよ」

光子はくやしそうに手をみつめた。2007年、エスカレーターで転倒し、手と腰を強く打って、指が曲がったままだからだ。

「なんでもささっと手縫いできたんだけど。三戸に(雌伏して)いたころ、人形づくりの生徒さんに、材料買ってこういうふうなのをやるよって言うと、みんなが集まってくるの。その人たちから幾らかいただいて、今度、秋になったら展覧会をしましょうってことになって、50人ぐらい集まった。これは大変、どこかを借りてやらなきゃと思ったわ」

光子の脳裏をよぎったのは、父が親炙しんしゃしていた女性教育家、羽仁もと子である。

「立派な学校(自由学園)を建てて、クリスチャンでやっていましたでしょう、やっぱり影響したんじゃないですか。自力で洋裁学校を始める夢。どうしても実現したくて、矢も盾もたまらず東京に飛び出したの」

光子がモデルにならなかったら、羽仁もと子の自由学園のような学校ができたろうか
(戦災にも生き延びたフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館)

光子だけではない。気がつくと、「洋裁ブーム」の渦中にいた。

復刊「装苑」、「スタイル」が瞬間売り切れ

文化学院が戦前から発行していた雑誌「装苑」の復刊は1946年7月だった。誰もが活字に飢えていて、あっという間に5万部を完売した。本屋がリュックを背負って直に買い出しに来たという。

同じ年に刊行されたデザイナー伊東茂平の戦後初のスタイルブックは20円という高額(月刊「文藝春秋」同年一月号が60銭)にもかかわらず、飛ぶように売れ、同じく宇野千代の「スタイル」は30万部を売った。

(「スタイル」)復刊の第一号がどんなに見事な出来であったか、いまも眼に見えるような気がする。高野三三男と言う巴里パリ帰りの画家の描いた女の表紙は、内容その他、すべての雰囲気を語っていた。その雑誌を一刻も早く手に入れたいと思っている人々の列で、ビルを二巻きして、まだ裏通りまで続いている光景を、四階の事務所から見ていても、私たちはふるえなかった。私たちにとって、その成功は当然のことだと思われたからであった。

宇野千代『生きていく私』

1947~1948年の憧れはスクリーンで見る外国人顔
(高野二三男画の「スタイル」表紙)

 

だが、極端な衣料不足、布地不足である。

浴衣、古着、端切れなどを工夫して、自らの手で縫製しなければならない。南北戦争に敗れたあと、カーテンからイブニングドレスをこしらえたスカーレット・オハラさながらだ。今でいう「ブリコラージュ」。着物地のつぎはぎと模倣のリフォーム服であっても、それを「アフタヌーン・スーツ」と称するいじましさだった。

ディオール発の「落下傘スタイル」

1947年にフランスのクリスチャン・ディオールが、ニュールックと称してロングスカートを発表した。日本ではそれを「落下傘スタイル」と呼び、ありあわせの布(ときには本物の落下傘の放出絹地)にフレヤーを入れて懸命に真似たのである。

この記事は有料です

会員登録・ログインして記事を読む