闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【12】
女金貸しと恋文代筆の「秘密の人生」
闇市に流れ着く人生には、人に言えない過去がある。すれ違った郷里の女学校の先輩が、何と女高利貸しだった。評判の美人6人姉妹の一人だが、姉の隠し子の数奇な運命こそ明かしても、自分のことには貝になる。恋文代筆業になった古着屋は、丹羽文雄が小説に、田中絹代が監督した映画で一世を風靡したが、自らの来歴は黙して逝った。 =敬称略、一部有料
第Ⅱ部青森の三戸から「東京さ行ぐべ」5
図らずも、故郷で見知りの顔に渋谷で出会った。ぎょっとした。
「あら、ヤス子」
「あら、光子」
渋谷の闇市でなぜ?聞けば、金貸し業の女社長だという。
恋文横丁の菅谷篤二の古着屋から、道玄坂を百軒店のほうへ少しあがると、ストリップ小屋「道頓堀劇場」の裏手の斜面の迷路のような横丁の一角に、「三福商事」という看板を掲げた店がある。その主だという。
中央上方の白い道が現在の文化村通りで、右が宇田川町、
左が恋文横丁や百軒店のある道玄坂方面(Wikipediaより)
彼女は三戸高等実科女学校の上級生だった。旧家の油屋の6人姉妹の一人で「豊臣秀吉」の名をとって豊子、臣子、秀子、吉子、そしてヤス子、トメ子である。全員が女学校にあがり、評判の美人姉妹だった。
「ヤス子」は光子の2級上で、小顔で腰が大きく、「顔もきれいだし、スタイルもよくて、足が長くて、カンガルーみたいに走る人だったの」。2人とも足が速く、ともにリレーの選手でリーダーだったから、すれちがって一目見て相手を思いだした。
お互い正業でないことは察しがつく。こちらも闇屋の買いだしだから、相手の詮索はしない。「ヤス子」がただの金貸しでないことはすぐ知れた。
「5、6軒先の小さい事務所を持っていて、彼女がお金をどこかから借りてきて、チビチビと貸す会社を男二人と一緒につくっていた。結婚していなかったんですよ。ですけど、美人でしたから、彼女にはお客さんがつくわけですよ。どういうわけだかわかりませんけど。有名なデパートの社長で、何とかという人にも貸しているとか、たまに教えてくれる。誰にも言っちゃだめよ、と言われて、私もべらべらしゃべらないし、そんなのはお互いに仕事の話でしたから」
住まいはどこか教えてくれなかったが、電話番号を聞いて菅谷にも紹介した。
華僑と銃撃戦の「修羅の街」
どうせとんでもない高利だろう。闇市のボッタクリ金融である。裏には暴力団の怖い影がちらつく。返せなければ、怖いお兄さんが身ぐるみ剥がしにやってくるのだ。
そのうち何度か三福商事に「ちょっと来て」と呼ばれた光子は、ヤス子に「ただ黙って座っていて」と頼まれた。来る客来る客、みんな借り手で、返済に四苦八苦しているらしい。が、ヤス子はなにやらぼそぼそ言っていた。なんでこんな取り立ての場面に立ち会わせるのか。あとでヤス子が種明かしをしてくれた。
「私を三福商事の金主に仕立てていたんですって。客には『あの人が金主で』なんて囁いているんですよ。もちろん、私は三福商事にお金なんか貸したこともない。でも、その客をいじめるのに、『金主さまがあそこに来ているから、今日直ちに払わなきゃどうなる』ってさんざん脅かしていたんですって。つまり客が金を返すかどうか、部屋の隅で睨みつける役だった。そうとは知らずにただ座っていただけなんだけど、へえって思いました」
板子一枚下は地獄である。裏には渋谷をシマにするヤクザがいるからだ。このころ闇市を仕切りかけていたのは、予科練帰りの安藤昇率いる愚連隊だろう。法政大学の不良学生から闇商売を始めた時代を、石原慎太郎が一人称で書いているが、安藤の〝シノギ〟も光子や菅谷と似たりよったりだった。
日本人には手の出ないドルを外人相手の娼婦たちからかき集め、その金でアメリカ兵専用のPXから日本人には手の届かぬ品物を仕入れ、高値で売り捌いた。まだ貧しい世の中で舶来の品物は飛ぶように売れた。
大学時代の友人の連合艦隊の司令長官の息子と謀って、輸出用の布地を横流しして荒稼ぎしたものだ。かき集めたドルをアメリカ兵に渡しドル専門の店で買い物をさせ、それを横流ししてもいたが、もっと大掛かりな手を考え、OSS(戦略情報局)のマネージャーの買収にかかった。
石原慎太郎『あるヤクザの生涯安藤昇伝』
安藤は1947年に学費未納で退学、新宿3丁目で洋装店「ハリウッド」を開いたが、新宿は上海特務機関出身で児玉誉士夫とグルだった万年東一のシマになっていたので、渋谷の闇市を勢力圏とする華僑グループへの斬り込み隊長となった。
宇田川町の華僑総本部と渋谷警察署の対決は、1946年7月に渋谷駅周辺で銃撃戦となった「渋谷事件」でピークに達していた。GHQの検閲で吉田精・渋谷署長とヤクザの〝共闘〟は闇から闇へと葬られ、米軍の軍事裁判で「連合国軍の占領目的を妨害する」として華僑総本部側の被告38人に懲役刑の判決が下った。
(石原慎太郎の安藤昇伝より)
これを機に安藤らが縄張りを蚕食、わずか5年で東興業(のちの安藤組)に大化けする。旧来の任侠と違い、背広を着て、刺青や指詰めは厳禁――というアプレゲールな愚連隊が、渋谷では肩で風を切って歩くようになった。が、報復の刃傷沙汰は絶えない。安藤自身も台湾人の蔡に頬を切られ、凄みのある傷跡をさらして生きた。
「ヤス子」が生きていたのはそんな修羅の街だった。
現に高利貸しで羽振りがいいはずなのに、「ヤス子」はいい服を着ていなかった。あれだけの美貌でも「男は嫌いなの」と冷たく言い放つ。よほど強欲なヒモがついていたのか。それとも安藤のシノギの一端として上納していたのか。
「男を何とか振り向かせようと粉をかけはしても、いったん振り向いてしまったら、どうでもよくなるのね。釣った魚に餌は与えず、ぽいと捨てるのよ。ヤス子が溜息をついていたことがあったわ」と光子が回想する。
光子とは同郷人で年も近いから、気安かったのだろう。何度か「ヤス子」に食事に誘われた。その席に太鼓持ちが呼ばれた。禿頭の男芸者でぺこぺこお辞儀をしていた。何が面白くて男芸者など呼ぶのだろう。光子には想像もつかなかった。
砕かれた「瞼の母」の幻想
だが、自分を語らない「ヤス子」が明かしたのは、姉の一人が女学校時代に、金持ちの若旦那との間で生んだ〝不義の子〟の話だった。この非嫡出子の薄幸の人生を、光子はその後もぽつりぽつりと聞かされた。
「未婚の母など許されない時代よ。認知もされなかったこの隠し子が、苦労の果てに、かぐや姫みたいなスター女優の生みの母になるんだから、血縁者のヤス子にとっても驚きの数奇な人生だったわ」