闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【10】
愛らしい「女親分」大阪遠征で挫折
八戸に進駐軍が駐屯、米兵の町に変わった。「戦争は終わった」と心を切り換えて、光子と弟磐男は、基地内のメイドとハウスボーイで働きに行く。闇市で古着屋を開いて荒稼ぎし、光子はいっぱしの「女親分」。新円切り換えと巣鴨の別宅を売った元手を懐に、古着調達を兼ねて大阪に乗り込み、文化住宅を建てて不動産でひと儲けを企むが……。 =敬称略、一部有料。
第Ⅱ部青森の三戸から「東京さ行ぐべ」3
「松の木の下に、見知らぬ男がへたりこんでいる」
伯父、谷内松次郎の家で暮らす森貝光子親子のもとに、近所の人が駆けつけた。見にいくと、ロール巻きにした兵隊用毛布を負い、ボロボロの服を着た男がいた。
はっとした。弟の磐男ではないか。大阪から骨と皮でたどりついたのだ。帰る途上、情け深い人に「これ食べなさい」と枝豆や栗を恵まれ、あとは水だけでしのいだという。母タケが「何を食べたい」と聞いたら、息も絶え絶えに「おにぎり」とこたえた。
「弟が生還できたのは、母が施した〝陰膳〟の功徳かもしれませんねえ。復員する兵隊が通りかかるたびに、うちの母ったら『ご苦労さまでした。とにかく怪我しないで帰ってきてよかった』と言って、おむすびや、茹でたジャガイモや、水をあげていたの。私たちがあきれて『食糧難なのに、見ず知らずの人を助けなくちゃならないの?』って不平を洩らすと、母は首をふって言ったものよ。『天知る、我知るです。すべて天が見そなわす。せっかく生きのびたのに、誰だって親に会いたいでしょ。磐男もどなたかのお恵みに縋って、生きているかもしれないからね』ですって。そしたら、特攻帰りの弟がいきなり現れたんですもの」
あと3日終戦が遅れれば、散っていたかもしれない。母も光子も涙した。
特攻訓練の弟が小豆島から生還
磐男が陸軍の「トッカン」(特幹、特別幹部候補生)を志願したのは、戦争末期の昭和19年である。数え年15歳、まだ兵隊に行く年齢ではない。兄栄一の腰が立たなくなっていたので「おれが行く」と手を挙げたという。自宅で本人が当時のことを語ってくれた。
「そのころは小学生、中学生でも総玉砕が合言葉でしたからね。精神注入されているから、日本の防波堤になるという気持ちでした。幹部を養成する学校と思って応募し、いきなり二つ星。召集兵より一つ星が多いんです。兄と伯父から『おまえに敬礼するんじゃない。その星に敬礼するんだ』と言われました。ところが、訓練に行ってみると、全然話が違う。毎日穴を掘って、船を隠すという掩蔽壕づくりです。なぜ?と聞くと訓練官に『おまえたちは死にに行くんだ』と言われました。特攻要員でした」
船とはベニヤ板のモーターボートの舳に120キロの爆雷2基を積んで体当たりする特攻艇だった。「連絡艇」の略号である〇にレの字の記号で、「マルレ」(正式名は四式肉薄攻撃艇)と呼ばれた。すでに帝国海軍は壊滅に近い状態で、陸軍も窮余の一策で船をかき集めて海上防衛に乗り出していた。暁部隊(船舶司令部)がマルレを三千隻製作したという。
海軍も似たような特攻艇をこしらえ、「震洋」と命名していたが、通称は「〇四」だった。後に『死の棘』を書いた島尾敏雄も、震洋艇の特攻要員として奄美の加計呂麻島の呑ノ浦で待機していたのだ。
1隻に搭乗するのは1人。外見は安価なベニヤ製のちゃちなボート(全長5.6メートル)だが、エンジンは自動車用を転用、時速20ノット程度しか出ないマルレを操縦して、敵の弾雨をかいくぐり、標的にたどりつける決死隊員を急ぎ養成せねばならない。広島の本部に集まった特幹2600人が投じられた。訓練施設の制約もあって一期生と二期生に分けられ、一期生は広島で3カ月の訓練後、直ちにルソン島と沖縄に送りこまれた。特攻どころか、戦場は敗走と飢餓で、ほとんどが生還できなかった。
遺書を書いたら「玉音放送」
磐男は待機組の二期生だった。3カ月待たされ、それが生死を分けた。そうでなければ、島尾のように南方で「死の発進」命令を待つ身となっていたろう。
巨大な死に直面したすぐそのあとでも、眠りは私を襲い、空腹が充たされたい欠乏の顔付をかくさないで、訪ねてくる。もうすぐ死ぬのだからという理由で睡眠と食慾を猶予してもらうことができないことは、私を虚無の方におしやる。でもからだの底の方にうっすら広がりだしたにぶいもやのような光の幕は何だろう。(島尾敏雄『出発は遂に訪れず』)
磐男もどこか非現実な靄に包まれていた。昭和20年6月から小豆島で訓練が始まる。軍が接収した東洋紡績の元工場が兵舎代わりになった。小豆島のすぐ隣に豊島があり、最初はそこが訓練場だった(のちに豊島は大量のゴミの不法投棄で全国に名を知られた)。
死出の旅に立つ少年兵への同情からか、食事は悪くない。週2回は肉、飯はコーリャンである。演習の行き帰り、食い気盛りの彼らに、島民がおにぎりを差し入れてくれたが、隊長は「もらうな」と禁じていた。磐男は唾をのみこむばかりだった。
6月には沖縄が軍民10万人の犠牲者を出して陥落したばかりか、7月に故郷の青森、函館にもB29が来襲、八戸、宮古、釜石に艦砲射撃があったと新聞で報じられた。こりゃあ、じぶんの死に場所も海外でなく、九州あたりかと覚悟を決める。遺書を書いた。
8月15日の玉音放送で、目の前が真っ暗になった。
「昼、放送を聞いたときは、あれはソビエトに対する宣戦布告で、がんばってくれとの陛下のおことばかと思っていた。でも、夕方になったら、軍歌を歌うのはやめろ、と上から指示が来た。本部は負けたと言っているという。とっさに、故郷に帰るという考えが、思い浮かんでこなかった。何もすることがない。不要になった保存食のカンパンが隊員に配られて、復員の途上はこれで食いつなげと言われたが、空腹でしたからね、ポリポリ食べて1週間でなくなった」
光子は磐男が歩いて三戸まで帰ってきたと思っていたが、本人はそうではないという。「満員の列車を乗り継いで、三戸をめざしたんです。何日かかったか、分かりません。とにかく食うや食わずの旅でした」
予科練帰りの『11ぴきのねこ』
磐男のように、終戦で九死に一生を得た八戸出身の特攻少年兵は他にもいる。漫画家で絵本作家の馬場のぼるだ。
絵本の名作『11ぴきのねこ』シリーズと聞けば、誰しもどこかで見覚えがあるだろう(2025年11月時点の累計は491万2600部)。ほのぼのとしたタッチで日本経済新聞の4コマ漫画「バクさん」も連載し、手塚治虫、福井英一と並んで「児童マンガの三羽烏」と呼ばれた。
馬場は三戸の黄金橋を渡った松並木のあたりで1927年に生まれた。光子の2歳下、磐男の2歳上にあたる。列車通学で二戸の旧制福岡中学に進み、1944年に海軍飛行予科練習生を志願、つまり「ヨカレン」14期生となった。
レニ・リーフェンシュタールの映画「民族の祭典」を思わせる
(倉田耕一『土門拳が封印した写真』より)
当時、高度1万メートル以上の上空から侵入するB29に対し、高々度用の過給器を持たないレシプロエンジンの国産戦闘機では迎撃できず、ロケット戦闘機を至急開発せよとの命が下った。そこで陸海軍共同で、酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めない新型機の開発に着手する。ドイツのメッサーシュミットMe163をモデルにした「秋水」である。
だが、三菱航空機にはロケット開発の経験もなく、設計図もなくて難航する。しかも「お光教」信者の初代司令が、神がかりで決めたという1945年4月22日の試験飛行は、滑空中にエンジンが黒煙を吐いてコントロールを失い大破、試験パイロットの大尉が殉職する悲惨な結果に終わった。ロケット機だと速すぎて、機銃の照準が定まらないため、用途も迎撃機から特攻機に変更された。
映画『ゴジラ-1.0』に出てくる幻の前翼型6枚プロペラ戦闘機「震電」のような起死回生の活躍など、望むべくもない。
その「空の特攻」要員として、1945年6月、16~17歳の予科練生900人が茨城県の土浦海軍航空隊に集められた。ところが土浦が米軍の空襲でほぼ壊滅、訓練機がなく、訓練場を北秋田の山奥、大野台に移して、グライダー訓練を行うことになった。
馬場は先遣隊の一人となり、山の上の高台を開墾して、滑走路の整地作業をやらされた。始まった訓練は数メートルのゴムを引っ張って、人が乗る小さなグライダーを飛ばす「人間パチンコ」だった。舞い上がるグライダーの先端には、爆弾に見立てた砂袋を取り付け、敵に体当たりする想定だ。
すべてが泥縄式の場当たり。「海の特攻」の磐男たちと大差ない。馬場の目にも、ほとんど児戯にひとしいと映ったろう。結局、7月になっても「秋水」は実戦配備に至らず、馬場は飛行機に一度も乗らずじまいで終戦を迎えた。
将校たちは悲愴な顔つきをしたり、泣いたりした人もいっぱいおりました。でも正直、私はホッとしましたよ。まず思ったのは、❝ああ、これで家に帰れる。家族に会える❞です。〔中略〕涙は出てこなかったです。
(1992年1月1日付「漫画新聞」170号の馬場のぼるインタビュー)
三戸の実家に帰って、リンゴの行商人になる。列車に乗って八戸までかついだところで、稼ぎはスズメの涙。半月で廃業して、兄とともに岩手の山村で開墾農民をめざした。だが、村有地の払い下げを受けられず、あえなく頓挫した。
『11ぴきのねこ』がみんな腹ペコで、海(湖)に怪魚を生け捕りにいく姿は、八戸までかつぎ屋で行った馬場自身が二重映しになる。骨だけになるあの怪魚は、仕留められなかったB29かもしれない。
馬場のぼるの記念館「ほのぼの館」を建てて町おこしに活用している
1947年に小学校の代用教員にやっとありつけた。ところが「ヨカレン」帰りの教員はまかりならぬとの進駐軍のお達しで失職、ひとまず農業会に身を寄せ、公職追放が解けてからやっと復帰した。
かたわら、好きな漫画を描いて通信添削に応募、三戸に疎開していた児童文学者、白木茂のツテで赤本を描いてみた。それをきっかけに1949年に上京、漫画家の道を歩むことになるのだが、三戸で不遇だった時代に劇団や映画館のポスターや看板も描いて、アルバイトに励んでいた。代用教員をやめたのは、八戸近くに駐屯する米軍キャンプに出入りして、イベントのポスターを描く手伝いをしたからだという。
八戸はみるみる進駐軍の町に変わった。1945年9月、米陸軍第8軍第9軍団が八戸飛行場を接収して進駐軍の基地(キャンプ・ホーゲン)とし、大拡張工事を行ったからだ。朝鮮戦争が勃発して転進するまで、米兵3200人が駐留する一大基地となる。昨日までの特攻兵も、背に腹は代えられない。
姉弟でメイドとハウスボーイ
光子も似たりよったりだった。「戦争は終わったんだから、今度は普通のお嬢さんになって、東京の洋裁学校をちゃんと卒業して洋裁の先生になろう」と考えていた。
「心は燃えていました。いえ、戦争中から燃えていた。父が警察に殴られて頭が悪くなって、病気になったわけだし。それはもう、戦争憎しだった。人に負けていられないって気持ちでしたね。人は殺さないにしろ、なにがなんでも生きていく。『風と共に去りぬ』のスカーレットみたいな心境です」
だが、姉のいる巣鴨に帰ろうにも、母の許しが出ない。食糧難で自活できないから、と。光子は返す言葉もなかった。しかたなく相内の家で、リンゴの袋かけとか、稲の田植えとかの手伝いをしているしかない。
別居の父は50歳で寝たきりになっていた。
「あんなに頭がよくて、三つも四つも商談が重なっても平気でこなせたのに、ある晩、『風邪をひいて疲れた』と言いだしたの。寝ていれば治ると思ったのに、気分がよくならない。父がいた家は古い瓦葺きの家で、中庭を渡ろうとして躓いて落っこちた。動けなくなって警官が縄で助け出す始末で、それきり枕から頭があがらなくなりました。今でいうならアルツハイマーみたいな症状でしたよ」
もう一家の大黒柱を期待できない。歩けなくなった弟栄一を抱え、特攻帰りの磐男もいる。なんとか細腕一本で働ける口をみつけなければならない。
眼前には米軍キャンプがあった。指をくわえて見ている手はない。
体力を回復した磐男が言い出した。「アメリカに負けたんだから、お姉さん、負けた国の家庭生活を見に行こうよ」