マリリン・モンローがいる閑静な街

闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【7】

マリリン・モンローがいる閑静な街

森貝光子は、ニューヨークの最高級コンドミニアムが立ち並ぶサットン・プレイスに住む身となっていた。劇作家アーサー・ミラーと結婚したマリリン・モンローが住んでいてよく見かけた。光子にもハリウッドのチャンスがあったが、モデルの後輩に役をさらわれて、そろそろ潮時かと帰心が募る。=敬称略、一部有料

 

第一部ニューヨークの蓮の花7

 

  アマチュア・レスリング界のドン、八田一朗は、1959年春のアメリカ遠征で世話になった森貝光子に、帰国後にお礼の葉書を書いた。光子の手もとにはその葉書が残っていて、青いインクで光子の住所が書いてある。

440 E, 59 ST. New York N.Y.

 ああ、イーストサイドだ。これで当時の住居が特定できた。ブルックリンに渡るクイーンズボロ橋のすぐ南、誰もが羨む住宅街サットン・プレイスである。光子が住んでいた建物は、グーグル・アースで見ると、一ブロック先にハドソン川の川面が見える。

「ヨーク・アベニューといって川沿いだったわね。大家さんはそのむかし船に乗っていた同性愛のおじさんで、5階建ての建物を持っていたのよ。エレベーターなしで上がり下がりするところ。その一室を借りることができたのは、ウェートレスのキクコに紹介されたからよ。借りていた住人が、パーティーからパーティーへと渡り歩く男芸者みたいな人でね。『俺は出ていくから、家賃を払ってくれるなら、代わりに住んでいいよ』と言うの」

男は大家に無断で引っ越したので、光子が大家にまた借りしてもいいか聞いてみた。

「おまえはワイフか」

「いいえ、ただの友だち。彼は長旅に出るんですって」

「ちゃんと家賃を払うなら構わない」

で、光子はそこにニューヨークを引き払うまで住むことになった。

光子が暮らしていたサットン・プレイスの川べりとクイーンズボロ橋

「いいところだったわ。ユダヤ人の大金持ちのおばあさん3人が持っていた何万坪の土地があるわけですよ。住人なら、そのプライベートな公園を使ってもいいの。だから、劇作家のアーサー・ミラーとか、女優のリリアン・ギッシュとか、ジョーン・クロフォードとか、宣伝業界のお歴々とかが住んでいるビルがいっぱい建ってました。ほんとうに大金持ちばかり住んでいたわね」

ポニーテールの清楚なモンロー

『セールスマンの死』の劇作家アーサー・ミラーは、1956年にマリリン・モンローと結婚している。二人はサットン・プレイスに住んでいたので、光子のフラットのご近所さんだった。

「ええ、よく見かけましたよ。モンローはまるで清楚な感じで、セクシーだとか本に書かれているけど、ごく上品なお嬢さんという感じの人でしたよ。すぐ近くにお茶を飲むところがあって午前3時ぐらいまで開いてるの。ああいうふうな人たちは、夜のお付き合いがあって、ご飯を食べた後に人と話をするのに、自分の家に呼ぶよりもカフェテリアで話をするらしいの。私もそばに住んでいましたから、彼女を五回ほど見かけたかしら。いつもきちっとポニーテールにして。何でもないお化粧で、ごく普通の感じで歩いていましたよ」

モンローは1953年のヒット作『ナイアガラ』、『紳士は金髪がお好き』)、『百万長者と結婚する方法』で、名実ともに20世紀FOXのトップスターになった。ヌード写真が『プレイボーイ』誌の売り物になるほど、押しも押されもせぬセックス・シンボルだったが、不安と不眠症に悩んでいた。自分の演技にも役柄にも不満で、撮影所には遅刻・欠勤を繰り返し、無名時代の契約に縛られて安い出演料の20世紀FOXと対立、とうとう1954年1月に映画出演を拒否した。

そのマイナス・イメージを打ち消す狙いもあって、交際していたヤンキースの大リーガー、ジョー・ディマジオと唐突にサンフランシスコで結婚式を挙げた。

新婚旅行も兼ねて二人が日本を訪れたのはこのときで、1954年2月1日、読売巨人軍の招待で羽田空港に降り立ち、東京、静岡、福岡、広島、大阪を巡った。広島ではカープの選手を指導する野球場にモンローが現れ、ディマジオそっちのけでファンが殺到する大騒ぎになった。

この年は代表作『帰らざる河』『ショウほど素敵な商売はない』が公開され、『七年目の浮気』も撮影された(公開は1955年)が、ニューヨークの地下鉄の通風孔の風でスカートがまくれ上がる有名な宣伝写真に、嫉妬深いディマジオが激怒、9カ月で離婚に至った。

モンローと別れて傷心のディマジオ(右)には
フロリダの「ラテン・クオーター」で出会った
(光子のアルバムより)

モンローは自分のスタジオを設立、マンハッタンに移り住んでリー・ストラスバーグの演劇学校「アクターズ・スタジオ」に通いだし、演技派への脱皮を図った。アーサー・ミラーとは、監督のエリア・カザンに紹介されてからの付き合いで、モンローがディマジオと離婚し、ミラーも妻と離婚すると、1956年6月に晴れて結婚式を挙げた。

FBIの警告無視で監視対象

実はミラーにも赤狩りの嫌疑がかかり、マッカーシーの非米委員会に召喚されていた。モンローはFBIの警告には耳を貸さず、改宗してまでユダヤ教式の結婚式を挙げたため、FBIの監視対象になった。1962年に急死するまで尾行や盗聴などに付きまとわれることになる。

20世紀FOXとは和解し、『バス停留所』(1956年)でセクシー路線を抑えたモンローは、喜劇と悲劇を融合させる演技をみせ、ゴールデングローブ賞にノミネートされた。だが、流産もあって1957年ごろから精神不安定になる。睡眠薬やアンフェタミンを多用し、アルコールにも依存して、病院にも短期入院したという。ジークムント・フロイトの娘で精神科医のアンナ・フロイトは、彼女に「境界性パーソナリティー障害」との診断を下した。

「セクシーっていうのは彼女の演技だったんでしょうね。同じグラマー女優でも、『紳士は金髪がお好き』で共演したジェーン・ラッセルは背も大きくて、お化粧もすごかったけれど、マリリン・モンローの場合は、ごく普通のきれいな優しい感じのお嬢さんでした」

アーサー・ミラーとマリリン・モンロー(1957年のニューヨーク)

夏は木洩れ日、秋は枯葉が舞うヨーク・アベニューの舗道。ロンドンに逃げ出す前のウッディ・アレンが愛惜した、ビル・エヴァンスのピアノが似合う古きよきニューヨークの街並みだ。英国でローレンス・オリビエと『王子と踊子』の撮影を終えたあと、18カ月の休暇をとり、ミラーとの結婚生活に専念していたころである。

「有名人たちは、ガードマンのいる何十階もある高いビルに住んでいたわ。モンローを見かけたカフェテリアはちょっと外れたところにあって、ヨーク・アベニューの大きな建物の一角だったわ。誰でもひょっと入れるの。よくいろんな人が来てましたよ。治安のいいところで、問題は何もなかった。しょっちゅう本に出ているファッションモデルで、優しいきれいな感じのお母さんが、子どもを連れて銀行によく来ていましたよ」

1958年にビリー・ワイルダー監督の『お熱いのがお好き』(1959年)の撮影に入るが、完璧主義の彼女は何度も撮り直しを求め、共演したトニー・カーティスを「ヒトラーとキスしている気分だった」と辟易させている。それでもモンローはついにゴールデングローブ賞のコメディ・ミュージカル部門で主演女優賞を射止めた。だが、数々の浮気でミラーとの結婚生活は事実上破綻し、1961年に離婚している。

ハリウッドでオーディション

でも、これだけハリウッドのスターたちと接していて、光子自身はカリフォルニアへ行ったことがないのだろうか。光子のメモでみつけた。

1959年12月、ネヴァダ州ラスベガスのカジノホテル「スターダスト」の名がある。なぜそんなところに?彼女とニューヨークやフロリダの「ラテン・クオーター」でロングランのショーをしたあのコメディアン、ミルトン・バールが呼んでくれたらしい。

「とにかく私を可愛がって、『茶屋』の合間合間にいろんなショーに出してくれた人よ」

バールは1950年代のテレビ黄金時代を代表するスターだったが、NBCの番組が打ち切りになると、ショーの舞台をラスベガスに移すようになっていたのである。

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