「絹のハンカチ」藤山愛一郎の裏目

闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【6】

「絹のハンカチ」藤山愛一郎の裏目

日本は1960年の安保闘争前夜で騒然としていたが、岸信介首相に乞われて財界から政界入りした藤山愛一郎外相がニューヨークに来た。笑顔で出迎えた光子は、その腹違いの弟をよく知っていた。藤山は赤坂にホテルを建設、その地下にセレブが集まる「ニュー・ラテン・クオーター」がオープンする。が、力道山が刺され、藤山の運命も暗転していく。=敬称略、一部有料

 

第一部ニューヨークの蓮の花5

ブロードウエーにあった初代メトロポリタン歌劇場Wikipediaより

森貝光子はまた、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のオペラ歌手にも見初められた。ミラノ生まれのバス、チェーザレ・シエーピだ。モーティマーのコラムには、狼のように美女をさらっていく色男十二人を暴露した文章があり、その筆頭に挙げられている。

<モーティマーの狼男五七年版>新たに王様となった国際チャンプは、ハンサムなメトロポリタン・オペラのバス歌手チェーザレ・シエーピ(若さ、ルックス、声、素地とも)。接戦だが次点は宣伝の達人ボブ・タップリンジャー。それから……〔中略〕。ほかにも黄金の十二人に匹敵する連中がいるんだが、既婚者の名をあげるのはフェアじゃないからね。閑話休題、チェーザレ・シエーピが『結婚したい』というただ一人の女性は、シェ・ヴィトーのロマンチックなバイオリンにうっとりして『イエス』と言うべきだろうな――彼女は森貝光子。トラファーゲンでデザインを学びに来ている東京のきれいどころさ。

オペラの「皇帝」のごひいき

シエーピは戦後、ヴェルディの『ナブッコ』で彗星のごとく現れ、ミラノ・スカラ座で『アイーダ』などを演じて、名の通りイタリア・オペラのチェーザレ(皇帝)となった。

トスカニーニの指揮でアッリゴ・ボイトの『メフィストフェーレ』などに出演しているが、1950年には米ソ冷戦が始まって、ロシア人歌手来演が不可能になったため、メトロポリタン劇場が急遽、彼を代役に起用した。たちまちアメリカのファンを魅了し、『ドン・カルロ』『セヴィリアの理髪師』『ファウスト』などの名曲を立て続けに歌う。

1953年にはザルツブルク音楽祭で、フルトヴェングラーが指揮したモーツアルト歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の主役に招かれ、以後、ジョヴァンニ役が彼の定番となる。いまもDVDやYouTubeのデジタルリマスター版の4Kカラー画像でその美声と颯爽とした容姿を観ることができる。

「ドン・ジョヴァンニ」が当たり役のチェーザレ・シエーピ

「初めてシエーピと会ったのは、リー・モーティマーと知り合ってからね。ウェルカム・パーティに招待されたの。私が一人でそんな有名人の中には入って行けるはずもないから、リーのコネでしょう。シエーピはなぜか私のことを『可愛い、可愛い』って言うの。どこが気に入ったかって?さあ、私たちが外国人を好きになるのと、外国人が東洋人を好きなのとは違ってるらしいの。私みたいに目と鼻があっちこっちでも可愛いのかしら。イタリアに帰るからどうしても写真が欲しいって、新聞社のカメラマンに私を撮らせたりしてたわ」

『リゴレット』『椿姫』『蝶々夫人』……1959年はそんな演目に毎週のように通った。平日はクラブ「ラテン・クオーター」の仕事があって行けない。もっぱら週末のマチネーである。字幕があるわけではない。曲を聞き知っているわけでもない。ひたすら聴くだけだが。

頭山満の愛人のすき焼き店で

「意味が全然わからなくたって、声のきれいなのと衣装や舞台を見たら、素晴らしいって分かります。歌舞伎の女形みたいに男が変な女の声色でしゃべるよりは、オペラでわあっと歌って掛け合いで盛り上がるほうが気持ちいいもの。シエーピはハンサムで、背も大きくて、役者としてもすばらしかった。それまで耳にしていたのは、少し日本の血が混じった藤原義江でしょう。シエーピを聴いて私はもう、オペラにクレージーになったの」

シエーピが楽団全員を招いて、日本料理店「斎藤」ですき焼きを大盤振る舞いしたことがある。光子のアルバムには、シエーピがドジョウヒゲの付け髭の先にイヤリングをぶら下げておどけている写真がある。ここにもシンディ・アダムズが写っていた。光子もお相伴にあずかったが、そこは玄洋社の頭山満の愛人だったマダムの店だった。

「斎藤」で楽団員にすき焼きをふるまうシエーピ(左)と光子=アルバムより

「ええ、マダムは小さい女性で、遠山満がアメリカやらどこやら世界一周旅行をしたときに、彼女はお付きで連れてってもらったそうです。帰ってから日本のほうを清算して、そのお金でニューヨークに『東京すき焼き斎藤』を開こうとしたの。ところがなかなか免許がおりなくて、こっそり私たちにご馳走してくれてた。それが晴れて免許が取れて、リーの口添えでシエーピが予約してくれた。どなたがどう払ったんだか、私はわかりませんよ。それで斎藤が有名になって、恩に着たマダムがリーにどれだけお礼したかわかりませんね」

シエーピは光子のためにメトロポリタンをフリーパスにしてくれた。シーズン中いつ行っても、名前を言えば記者用の特別席に案内されたのである。

「いつか、リーと大きなオペラを聴きに行ったんです。そうしたら、外人がいたずらで、グラスの氷を私の背中に入れたんですよ。着物を着て衣紋を抜いているから、入れやすいじゃないですか。リーに対するやっかみでもあるわけですよ。あのとき、なぜ黙っていたんだろう、今だったら、何かでぶん殴るわ。この年になって今さらだけど、やっと腹立てているの」

「風と共に去りぬ」のオリビア夫妻

女優オリビア・デ・ハヴィランド夫妻が光子といっしょの写真もあった。日本料理らしいものを、仲睦まじく箸でつまんでいる。

オリビア・デ・ハヴィランド(左)とピエール・ガラント(右)夫妻と光子=アルバムより​​​​

オリビア・デ・ハヴィランドといえば、『風と共に去りぬ』でスカーレットが密かに恋していたアシュレーと結婚する恋敵メラニー役が思い浮かぶ。英国人らしい上品で清楚な顔だちで、妹は同じく女優のジョーン・フォンテーン。女優だった母の血を受けて、ふたりとも美人で主役級のスターになったが、口も利かぬほど仲が悪かったらしい。

オリビアは1930年代にエロール・フリンの相手役でスターにのしあがった。が、お嬢様のイメージが災いして『風と共に去りぬ』では、気の強そうなヴィヴィアン・リーに主役をさらわれた。そこで演技派に挑んで1946年の『遥かなる我が子』と1949年の『女相続人』で二度、アカデミー主演女優賞を受賞している。

『風と共に去りぬ』でメラニー・ハミルトン役を演じたオリビア

見た目よりは意志が強いのだろう。1955年にパリ・マッチ誌のジャーナリスト、ピエール・ガラントと再婚している。ピエールは金持ちだが、小児麻痺の後遺症があったらしい。

「私が風邪をひいていたのに、どうしても会いたいと言って来たのよ。気に入ってくれて、東京でも大使館に招待されて何度もお食事した。オリビアってとっても可愛いの、アリガトウとか、大好キデスとか、日本語がちょっとしゃべれて、東京生まれなので箸あしらいが上手なのね。旦那さまに教えてあげていたわ。仲がよくて、ご主人は貴族ですって」

どんなジャーナリストだったのだろう。

グレース・ケリーのキューピッド

1955年5月、グレース・ケリーとモナコのレニエ大公が出会うきっかけをつくったらしい。グレースはカンヌ映画祭に来ていて、パリ・マッチ誌のためにモンテ・カルロで撮影することになり、そのアレンジを彼がしてキューピッドになったのだという。

グレース・ケリーとモナコのレニエ大公
世紀の恋のキューピッドはガラントだった

そればかりではない。著書は『ワルキューレ作戦』『総統壕の声』『ヒトラー生きて将軍死す』『将軍』『アンドレ・マルローその小説的生涯』『マルセイユ・マフィア』と、ドキュメンタリーを中心に硬派である。

彼のスクープが世界を震撼させたのは、1972年にフランス情報機関の記録から、ココ・シャネルがナチのスパイ(ハンス・フォン・ディンクラーゲ男爵)を愛人にしていたことを暴露したときである。前年に87歳で亡くなったシャネルを悼み、彼女の崇拝者だった大統領夫人クロード・ポンピドーが主催する展覧会「シャネルに捧げるオマージュ」が、このスッパ抜きで中止の憂き目を見た。

ドイツ占領時の過去をガラントに暴かれたココ・シャネル

オリビアとは1962年に別居していて、1979年には正式離婚している。二人のあいだに何があったかは、ユーモアでくるんだオリビアの回想録『フランス人は誰もが飲み過ぎ』で、ぼんやりと察するほかない。

結婚経験がまだなかった光子には、そうした夫婦の機微はわからない。ましてや優しそうな「旦那様」が、辣腕のジャーナリストとはつゆ知らなかった。でも、レジスタンスの闘士だったから、当時の人脈からインテリジェンス畑の人だったのではないか。でないと、シャネルの正体暴露から、グレース・ケリーのキューピッドまで、とんでもない幅の広さを説明できない。眼光鋭くなかったか、と光子に聞いてみた。

「そうかしらねえ、オリビアと違って、箸に手こずっている不器用な男に見えたけど」

東銀支店長夫人とオノ・ヨーコ

もうひとり、挙動の不思議な日本人妻がいた。光子が出入りする高級ナイトクラブで始終見かけるのだ。和装だから否応なく人目につく。いつも男たちに取り巻かれていた。

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