クラブ「ラテン・クオーター」の檜舞台

闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【5】

クラブ「ラテン・クオーター」の檜舞台

やはりアメリカは底知れぬバビロンだった。光子には〝お守り役〟の芸能ジャーナリストがいた。日本人女性には目がないシュガーダディー。暗黒街のルポで名を売り、ブロードウエーでは顔パス。そのコネで光子は高級ナイトクラブのショーの主役になり、人気絶頂の早川雪洲らとひっぱりだこに。 =敬称略、一部有料

 

第一部ニューヨークの蓮の花4

 

「女好きな男でね、シュガーダディーなのよ」

アメリカの芸能界で泳ぎだした森貝光子の〝お守り役〟となったユダヤ人芸能ジャーナリストのリー・モーティマーのことを、彼女はそう言ってのける。「シュガーダディー」(sugar daddy)とは、若い女に貢ぐ「色呆け親父」のことを言う。が、なかなかどうして食えないところもあった。

「肉体が欲しいというより、やさしくして女の喜ぶ顔が見たいの。でも、サドみたいなところもあったわねえ。女の子の上に乗っかって、細い紙縒こよりみたいなきれいな鞭で、五歳の子が打つみたいにぴしぴし叩いて喜んでるのよ。だんだん高じてきたら、首絞めなくちゃ、とかね。そうされるのが好きな女の人もいてね。大学を出て商社で働く二世の女なんかが寄ってくるのよ。手袋の片方をわざと忘れて気を引いて」

光子もたちまちモーティマーのお気に入りになった。

「シュガーダディー」のリー・モーティマー(左)と光子(本人のアルバムより)

とうとう結婚を申し込まれた、とキューさんの初稿には書いてある。ほかにもお手つきがいると知っていたから、あっさり袖にした、とも。それ以上に、まだ結婚する時期ではない、とかたくなに考えていた。その後の人生を振り返ると、結婚してあげればよかったかしら、とも思う。彼女が拒絶したため、モーティマーはいわゆる戦争花嫁の日本人と再婚した。

ところが、しばらくして心筋梗塞で他界したと聞いた。一九六三年三月一日のことである。

その日はまさに、光子が別の男と結婚した日だった。光子は悔やんだ。モーティマーに悪妻を押しつけてしまったのではないか、と。逆境に陥ったときは、いつもモーティマーに祈った。彼なら助けてくれるだろうと――。

キューさんの記述はほんと?と改めて聞き直すと、光子は首を横に振った。

「べつに求婚されたわけじゃないのよ。彼の家で開かれた賑やかなパーティーの隅のほうで、彼一人しくしく泣いているわけ。『どうしたんですか』って聞いても、何もしゃべらない。またしゃべったとしても、私もそこまで英語がわかりませんからね。男の人が泣くなんて見たことないものですから、そのうちに私まで悲しくなっちゃってもらい泣きしちゃったの。そしたら、彼が『こんなにたくさんの女性がいて、いろいろなことをしてあげたけど、僕の悲しみをほんとうにわかってくれるのはあなただけだ』とか言いだしてね。私は何だかわけがわからない」

それがもとで、「朝食をいっしょにしよう」とか「夜また逢いましょう」とか、しきりに誘いをかけてきた。だが、光子は洋裁学校に通う学生の身だ。それを理由に「またいつか」と朝食を断ると、「じゃあ、夕食をぜひいっしょに」と諦めない。

「夕食したら最後、次のナイトクラブ、次のナイトクラブと引っ張りまわされて、みんな回らなきゃいけないわけですよ。それまで行ったことがないものですから、最初のうちはとっても楽しくて、ご馳走はおいしいですし、そのころステーキなんて食べたことないですもの。出るもの出るものおいしいものばかりでした。喜んでついていって、朝の四時までシャンペンを呑み明かしたこともあった。でも私、学校に行かなくちゃならないし、夜一時になんて寝たことがないから、くたびれてどうにもならなくなった」

「籠の中の鳥」に周囲は心配

困ったことに、このシュガーダディーは「じぶんが捕えた小鳥を籠のなかに入れたような気分になっていた」という。新聞には「日本から来た最高の日本人モデル」と書く。

「とにかく、勝手に書くんですもの。だけど、洋裁学校では、記事を読んだ先生たちが心配してね。『ミツコ、あの男はワルだから、付き合っちゃいけません。売り出すにはいいかもしれないけれど、あなたの人間性を崩すから、あの男とは出歩いちゃいけません』って諌めるんです。人間としては悪くない人かもしれないけれど、とりたてて私に親切にしてくれたことはなかったはずよ。あのぐらいはみんなにやってます。『結婚したら、お土産屋を持たせてあげたい』とか何とか、たいていホラに決まってるでしょう?『ありがとう』と答えて、『英語ができないから、お店なんて持てないわ』とかわすだけでした」

彼女の耳には、酔余の甘言としか聞こえていなかったのだ。

ブロードウエーで顔役のモーティマーは取材などしない。光子もそれを目撃した。

「レストランに行くと、マネージャーか誰かが情報を渡すのね。きょうは誰と誰が店で会っていて、どうしたとか。壁に耳ありよ。テーブルの会話の中身もツツ抜け。すると、リーが何十ドルか握らせて、次の店へ行くの。一人で回ってもつまらないから、四、五人の取り巻きの女を連れていくわけ。私が横目で見ていると、女たちをはべらせて、両方から触らせてるのね。彼も女の膝を撫でたり、足先でくすぐったり。ロリコン趣味で、姪まで手をだしちゃったそうよ。変態性ね」

なるほど、ネタは向こうから集まってきて、ちょいとお触りか。光子とてその取り巻きの一人だったのだ。しかし、そこまで彼が食い込めたのは、ショービジネスのキーパースンを知っていたおかげである。ニューヨークの興行網「ロウズ・シアター」の宣伝担当だったニルス・グランルンドだ。光子がかいまみたアメリカン・ドリームの舞台裏は、モーティマーの先駆者とも言えるこのグランルンドが一身に体現している。

モーティマーの先駆けニルス・グランルンド

彼の自伝『金髪、黒髪、弾丸』によれば、スウェーデンの北極圏ラップランド生まれで、アメリカに渡ってきた移民だ。貧しいユダヤ人出身の興業主マーカス・ロウのもとで、客の入りの悪い二流劇場の客寄せに異能を発揮した。今日、映画の上映前に流される予告編も、買収したラジオ局による映画のメディアミックス宣伝も、もとは彼の創意と発明なのだ。

「ニッケルオデオン」――五セントのニッケル玉で短い無声映画をちょい見せしたちっぽけな見世物小屋を知ってますか。ピーター・ボグダノビッチ監督のノスタルジックな映画にあったが、このミニ映画館チェーンからアメリカ最古の「ロウズ・シアター」チェーンを築いたオーナーがロウだった。

芸能コンツェルンの後ろ盾

ひょんなことで宣伝係になったグランルンドの八面六臂の活躍で、たちまちヴォードヴィル劇場や豪華な映画館を持つ芸能コンツェルンが生まれる。劇場街ブロードウエーに本社と豪華な旗艦劇場を構えた。一九二四年にはハリウッドのスタジオ三社を合併させ、MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー・ピクチャーズ)を設立、配給網とスタジオの両方を手中に収めた。

MGMの生みの親、マーカス・ロウ

今日のMGMの生みの親となったロウは、しかし一九二七年に心臓発作で急逝してしまう。

残されたグランルンドは、仄暗いナイトクラブでショーの設計屋として生きていく。有名クラブのショーで半裸の踊り子にラインダンスを踊らせ、歌手、コメディアンを乱舞させる演出によって、禁酒法と恐慌の暗澹たる時代に一世を風靡した。

グランルンドが1932年にブロードウエー48番街の
キャバレーで開いたハリウッド・ショーのプログラム

 

一九三八年九月、じぶんでナイトクラブを開いた。翌一九三九年には、ニューヨークで万国博覧会が開かれ、世界各地から代表を招く美人コンテスト「コングレス・オブ・ビューティー」を演出したが、これは失敗に終わった。それはそうだろう。ヨーロッパでは、とうとう第二次世界大戦が始まった。

それから七年間、彼はハリウッドに本拠を移す。始めたコーラスラインのレビューが、大戦中にカリフォルニアに駐屯していた兵士たちの人気を博した。彼はブロードウエーとハリウッドの両方で美女の目利きになったのだ。

ショービジネスの女の子たちは、生涯にあいまみえる他のどんな女たちよりも、誘惑にさらされる。必ずしもスターの座にたどりつくためでなく、女の子が自らの尊厳を保つためにそれに耐え抜くには、精神的にも道徳的にも大きなスタミナを必要とする。いくら気を配り、防御していても、このいかがわしいビジネスには盾とならない。彼女はじぶんで道を選ぶのだ。幻惑はいともたやすい。

夢に破れたスターの卵たちへの哀惜にあふれた彼の自伝を読むと、光子が芸能界でただ「消費」されるだけに終わらなかったのは、ほとんど奇跡のように思える。

グランルンドはラジオの先覚者でもあった。モーティマーの先輩ウィンチェルが、一九三〇年代にゴシップの帝王として恐れられたのはラジオの番組を持っていたことにもよるが、ラジオが巨大な娯楽メディアになることに最初に気づいた先覚者がいたからである。

グランルンドは一九二二年に「ラジオ」と呼ばれるガラスの箱を知人に見せられ、ロウの資本を使ってラジオ局を開局、自身もイニシャルのN・T・Gを名乗って人気司会者となった。彼は斬新なアイデアを繰り出す。スポーツの実況中継を始めたほか、ハーレムのナイトクラブ「コットン・クラブ」に出演するジャズバンドのライブ演奏を電波で流し、「ジャズ・エイジ」の幕を開けた。あのラリー・パークスが演じた本物の歌手、アル・ジョルスンも彼のラジオに出ている。

そのグランルンドのリアリズムを真似て、ラジオ番組の司会となったウィンチェルも、タイプライターの音とともにスタッカート調の早口で語りだすオープニングを考案した。

「こんばんは、ミスター・アンド・ミセス・アメリカ。国境から国境まで、海岸から海岸まで、そして海上のあらゆる船舶へ、さあ始めましょう」

モーティマーもグランルンドの助力でじぶんの番組を持った。そのレビューやショーには必ず顔を出して、ショービズの人脈と勘を学んでいる。いわばモーティマーにとって教祖だったのだが、その名に聞き覚えがあるかどうか、光子に聞いてみた。

「覚えがないわ。もう引退してたんじゃないかしら?」

確かに、彼は五七年四月に六十六歳で世を去っている。

太平洋戦争中にモーティマーは大化けした。一九四二年、米軍に応召し、通信部隊に入隊したが、一年で除隊してしまう。デイリー・ミラー紙の元の上司と組み、ニューヨーク、シカゴ、ワシントンなどの「コンフィデンシャル」コラムを本にして大当たりをとった。一九五〇年代には、コラム名をタイトルにした『ニューヨーク・コンフィデンシャル』や『シカゴ・コンフィデンシャル』が映画化されている。

1948年出版の『ニューヨーク・コンフィデンシャル』

「そうなると、彼の歓心を買おうとして、ナイトクラブやレストランだけでなく、映画会社や宣伝会社まで、いろいろ彼に贈り物をするの。ミンクのストールをもらったりとか、それをリーが気前よく私にくれるのよ。ひとつはまだ持ってるわ。一種のワイロなんだけど、あんなに当たり前だと感覚がマヒしちゃうわね」

そういえば、ミステリー作家、ジェームズ・エルロイの原作で、一九九七年に映画化されたラッセル・クロウ、ケヴィン・スペイシーらが主演した『L・A・コンフィデンシャル』って、彼のコラムのもじりなのか。

独特の名文家エルロイは、あの時代に郷愁があるのだろう。モーティマーの「コンフィデンシャル」シリーズでは書かれなかったロサンジェルス版という意味なのだろう。

モーティマーの本の人気にあやかり1955年に
製作された映画版。邦題は『紐育秘密結社』

下心があって、ノワール社会に染まり、女にだらしがない……それでも光子にとって、モーティマーはかけがえのない恩人だった。惜しみなく人脈を紹介し、親切が過ぎて嫌な相手にもつなげてしまう。面倒見のよさが、どこか憎めなかったからだろう。

藤原歌劇団や宝塚が渡米公演

一九五六年十月十八日、藤原義江率いる藤原歌劇団がニューヨークにやってきた。一九五二年に続き戦後二度目である。

「藤原義江が来たって、アメリカじゃ、ちっとも客が入らない。あの人は日本でなら初のオペラ歌手でしょうよ。ハーフできれいで、素敵な声をしてて。それで売り込んだんだけど、アメリカにはもっと上手な歌手がいるじゃないですか。だれも切符を買ってくれない。そこで日本ファンのリーが一肌脱いでくれたの。彼に駆り出されて私もサクラになって、ほかの人を誘ったわ。『タダで食事もつけるから、ちょっと付き合ってよ』って」

1952年の第一回渡米公演の藤原義江(右)とあき夫人。劇団員28人が同行した。

似たようなことは、一九五九年七~十一月の宝塚歌劇団カナダ・アメリカ公演でもあった。天津乙女、寿美花代、真帆しぶきら四十二人のタカラジェンヌが来て、『春の踊り』『四つのファンタジア』などを披露する予定だったが、ニューヨークでトラブルに遭遇する。

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