シベリア帰り「刈田」の錯乱

百間外伝 第15話

シベリア帰り「刈田」の錯乱

日本郵船の貧しい少年給仕をかわいがり、その向学心を愛でて奔走したが、出征して牡丹江の激戦で行方知れず。やっとシベリアから生還し、住み込みの秘書代わりとしたが、百間の内妻に横恋慕。ストーカーに凶変して、師弟とも脅かされた。=有料記事、約1万4100字

谷中安規「方寸版画」創刊号・幻想集2夜(木版単色、9.9×10.2 1933)東京国立近代美術館所蔵​​​​

昭和25年10月に行われた最初の阿房列車の模様は、翌年の『小説新潮』1月号に「特別阿房列車」と題して発表された。

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」

書き出しからは、いかにも暢気な旅のように読めるが、日記を逍遙すると、数カ月前から百間は、私生活において戦後最大ともいえる危機に直面していた。

出刃包丁や薪割を持ち出す騒ぎ

「晩盞中、二三日来変になり居る刈田が、出刃包丁や薪割を持ち出す騒ぎ也、小林博士に来て戴き、お酒一升麦酒二本にて泊まつて貰ふ。刈田は出て行きたり、もうもとの様にはなれざる可し。就寝四時」(百間日記・25年7月16日)

同居する刈田が、突然騒ぎ出したのであった。主治医の小林安宅博士に往診をお願いし、そのまま泊まってもらう。

騒ぎは、翌日も収まらない。

「朝小林博士帰る。清水来、中村来、刈田の事にて来て貰ひたる也、そこへ刈田帰り来。清水が話して連れて行く、ち江の所に昨夜泊めて貰つた由にて、今日もち江の所に行かせたる也。朝新潮社沢本女子来、校正を渡す」(同・7月17日)

千代田区番町の百間宅「三畳御殿」の門構えには「日没閉門」の標札

百間の元学生で法政職員の清水清兵衛と国鉄の中村武志を呼んで、事情を説明する。そこに刈田が帰ってきた。前夜は「ち江」の家に泊まったという。百間と暮らしていた胡夷こひさんの妹である。その日も「ち江」の家に行くよう清水が説得した。

9日には「実説艸平記」を脱稿し、校正作業中だった。

夕方になると中村と平山が「ち江」の家に行き、平山は刈田を赤坂の自宅に連れ帰り、中村は戻って百間宅に泊まり込む。

「朝中村役所へ出かける。新潮社沢本女子来、校正を渡した。午後多田来、刈田の事也。……夕中村帰り来、夕小説新潮小林来、今夕は原稿完成にて呼びたる也。後から多田来、刈田の件也。中村、小林、多田にて一献す」(同・7月18日)

翌日午後、法政大学の多田基がきた。刈田は法政大学の学務課で働いていたが、紹介したのは多田で、百間の最も古い学生であった。

『実説艸平記』の脱稿祝いもふっ飛んだ

夕方には、新潮社の小林博も訪れる。「実説艸平記」の脱稿祝いに一献傾けるつもりだったが、多田、中村も加わり、刈田騒動の善後策を協議する。

翌日、多田は知り合いのいる病院に相談に行った。

「午多田来、Tの病院刈田の入院の事を打合はせて来てくれたる也。午後平山中村が刈田を連れて帰つてくれた。刈田は昨夜も平山の所に泊まりたる也」(同・7月19日)

刈田は病院に行くことを納得し、百間宅に帰ってくる。

この夜は多田が泊まり込んだ。

「朝平山来、多田、刈田と一緒に行く為に来てくれたる也。八時半前三人一緒に出かけた。TのP病院の精神科へ行き、L博士の診断に依り電気療法を受けて、午後平山に連れられて帰り来」(同・7月20日)
次の日には、平山夫人から電話があり、招きに応じて刈田は泊まりにいった。平山の家で数日過ごしたのち、25日になって戻ってくる。

翌26日に百間は、平山夫人のみち子宛てに手紙を出した。28日に自分は所用で外出するが、御主人を自宅に招いて御馳走する予定だとして、こう続ける。

「愚妻と○○が非常に熱心に申し出ました趣向は、その席へ奥さんとひな子ちやんを一緒におよびしたいと云ふのです。……御主人様より一足先へと云ふ事にして○○がお送りして行つて泊めて戴きたいさうです」

ひな子は平山の娘、愚妻は胡夷さん、○○は刈田だろう。刈田が落ち着きを取り戻した様子がうかがえる。

じっさい28日の百間日記には、次のように記される。

「大雨の中を西銀座のいづ井へ行く。中村と伊藤整氏同席也。伊藤氏と初めて会ふ為の席なり、後で新宿へ廻りて又麦酒を飲み、小林に自動車で送られて帰る。留守に平山在り、来る様に云つておきたる也、みち子ひな子もよぶつもりであつたが大雨の為来られず。刈田御馳走を届けに行きて泊る」

「青木」から改姓した謎

それにしても「刈田」とは、いったいだれであろうか。

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