風味花伝
自然体、多国籍の「だし」でうま味 風味花伝
        パクチーピューレでマリネした茨城県産ヤリイカのタルタル  根セロリのピューレ どんこ椎茸の温かいストック    撮影/天方晴子

第18回

自然体、多国籍の「だし」でうま味

ELUSIVE (イルシーブ)

オーナーシェフ岡野孝明氏     

 

東京都千代田区神田猿楽町1-2-3 UTビル1F

https://www.instagram.com/bistro_elusive

03-6281-3300

本の街・神保町にオープンした「イルシーブ」は「オルタナティブ・ビストロ」を標榜し、既成ジャンルには当てはまらないクリエイティブな料理を提案する。こう聞くと地に足がついていない印象を受けるかもしれないが、そんなことは微塵もない。オーナーシェフには経験に裏打ちされた技術にくわえ、明確な狙いがあるからだ。

岡野孝明氏は大学在学中に手に職をつけたいと思いなおし、料理の道へすすんだ。服部栄養専門学校ではフランス料理を専攻したものの、当時から枠にとらわれないフュージョン系に興味があったという。卒業後にフランス料理店やモダンフレンチの店で働き、オセアニア料理のレストランでは料理長を務めた。「このときにオーストラリアへ研修に行く機会に恵まれました。そこで出会った有名レストランのシェフに『オーストラリア料理とはなにか?』とたずねたら、『そんなものはない』と一蹴された。そのときに、それでいいんだ。自由で構わないんだと再認識できましたね」

その後独立を果たした岡野氏が料理をつくるうえでもっとも重視するのが、「素材」のポテンシャルだ。フランス料理から出発しているのでその技術やレシピは用いるが、それよりも新鮮な魚、味や香りがしっかり感じられる野菜、質の高い肉にアプローチすることを優先する。そこから「自分ならどう食べたいか」と料理を発想していくという。

「ジャンルを問わず外食は好きだし、料理本や料理専門誌にも目を通すようにしています。そこから日本料理や中国料理も含めた多ジャンルの調理技術や素材使いなどを学んでストックし、そのつどあれこれ引っ張り出すわけです」。東京では世界中の料理を高いレベルで味わうことができるので、それを参考にしないのはもったいない。おいしいなら料理の国籍にかかわらず、その技法をどんどん採り入れたいと話す岡野氏はどこまでも貪欲だ。

もうひとつ岡野氏の料理を語るうえではずせないのが、「だし」の要素である。ここでも出自にはとらわれず、日本料理の手法である昆布だしや鶏のだしを常備。フランスの魚介スープ「スープ・ド・ポワソン」には繊細な風味を表現するために水から魚の骨で取っただしをベースに用いるし、独特の渋みを出すために中国料理店の素材を蒸してだしを取る手法を拝借することもある。「味が弱いと感じたら塩ではなく、フォン・ド・ヴォーなどをくわえてうま味を調整します。だしによって素材の潜在能力を引き出すイメージですね」と岡野氏はいう。だしのうま味がしっかり感じられるので、イルシーブの料理は繊細な見た目と裏腹に満足度が高い。

写真のイカの前菜はパクチーのピュレでマリネして土っぽい香りを移したヤリイカに根セロリのピュレを添え、温かいシイタケのだしをまわしかけて提供する意欲作だ。だしで温度を上げ、イカにまとわりついた風味が立ちのぼるという仕掛けで、そこにカリッと揚げたマイタケの食感、カイエンペッパーの辛味を合わせてメリハリをつける。

このように岡野氏の料理はさまざまな味、香り、食感が同居し、ひと皿で完結しているので、ももの足りないということがない。岡野氏も「好きなように使ってもらえれば」というスタンスだから、前菜だけを頼んでワインバーのようにも利用できる。もちろんお腹を満たしたいならアラカルトメニューから前菜数品とメインを選べばいいし、少し気張りたいときには要予約のコースもおすすめだ。ワインは料理と同様に多国籍で用意。カウンターがメインの「ワンオペ」営業なので、シェフとコミュニケーションを取りながら料理に合う一杯、一本を選ぶといいだろう。

「やりたいことがたくさんある」と岡野氏は意欲的で、日々新しい料理の試作を続けているから行くたびに新鮮な驚きを味わえる。あれこれ蘊蓄を語るよりも素直においしい料理とワインを楽しみたいときにふらっと訪れれば、かならずやお腹と心を満たしてくれる使い勝手のいい店である。■

岡野孝明氏(おかの・たかあき)略歴

1978年埼玉県生まれ。大学卒業後に服部栄養専門学校に入学。都内のフランス料理店や汐留のモダンフランス料理店「フィッシュ バンク トウキョウ」に勤務し、ニュージーランドレストラン「アロッサ銀座」のシェフに就任。炭火焼きレストランを経て、2023年に東京・神保町で「イルシーブ」をオープンして独立開業。