第9回
歌劇の舞台にウクライナの青と黄
ロシアのウクライナ侵攻(2022年2月24日)以降、クラシック音楽の世界でも指揮者のワレリー・ゲルギエフら「親プーチン派」のロシア人アーティスト締め出しや、ウクライナ支援のチャリティー・コンサート開催など、様々な動きが起こっている。
日本は西欧よりロシアの国境に近く、ウクライナとも地続きではない島国だから、ドイツやフランスほど差し迫った脅威はない。それでも一般人が殺される惨状に心を痛め、せっかく緩和された欧州とのアーティスト往来も、ロシア上空を飛行できない状況で再び困難を増すなか、日本人らしい穏やかな手法で、連帯を表明する動きが広がりつつある。
ウクライナ人指揮者アンドリー・ユルケヴィチが新国立劇場で《椿姫》(ヴェルディ)のリハーサルを始めた翌日、悲劇は始まった。ピットに入る東京交響楽団の当番コンサートマスターは、ロシア人のグレブ・ニキティン。「このような時に東京で指揮をしていていいのか」と葛藤するユルケヴィチを、ザグレブ・フィル在籍中にクロアチア内戦を経験し、滞日30年に及ぶニキティンが懸命に支えた。3月21日の千秋楽では客席からウクライナ国旗を掲げる観客が現れ、感動のカーテンコールになったという。
3月18日、東京文化会館大ホールの「東京・春・音楽祭2022」開幕公演の指揮台に現れたイタリアの巨匠リッカルド・ムーティは演奏が世界に同時配信されると聞き「何か言葉を発したい」と希望した。ヴェルディの歌劇《シモン・ボッカネグラ》第1幕第2場のせりふ、「私は叫びたい、平和を!私は叫びたい、愛を!」を引き合いに出し、「今夜の私はこの精神で、若い人々のオーケストラとともに、未来への希望を届けます。音楽は続かなくてはなりません」と語りかけた。
4月23&24日、Bunkamuraオーチャードホールで東京二期会が上演したプッチーニの歌劇《エドガール》のセミステージでは第3幕冒頭のエドガールの葬儀、人々が「レクイエム」を歌う場面に爆撃で破壊された建物の映像を入れ、児童合唱団がウクライナの国旗を棺にかけた。トスカーナの古都ルッカで代々続く宗教音楽家の出身だけに、この「レクイエム」は若書きとは思えないほど完成度が高く、プッチーニ自身の葬儀でも演奏されたという。歌詞の「フランドル」を「ウクライナ」に置き換えて聴けば、内容はそのまま、ロシアのウクライナ侵攻に当てはまる衝撃。とりわけ「主は善と悪を見分けたまい、正しきと誤りを知りたもう。邪悪な剣にたおれたる善なる者は、天国へ入る」との歌詞には、胸をつかれた。
現代ウクライナを代表する長老作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937ー)が2014年に初演した無伴奏(アカペラ)合唱曲《ウクライナへの祈り》はロシアの侵攻後、少なくとも2人の作曲家がオーケストラ用に編曲した。ドイツ・バンベルク交響楽団のウクライナ人チェロ奏者エドゥアルト・レサチュが編曲した室内管弦楽版は3月19日に原田慶太楼指揮、愛知室内オーケストラが三井住友海上しらかわホールでアンコールとして、ドイツ系イタリア人作曲家アンドレアス・ジースが編曲した管弦楽版は4月21日に大野和士指揮、東京都交響楽団が東京オペラシティコンサートホールで定期演奏会冒頭の追加曲目として、それぞれ日本初演した。
音楽家と聴衆の気持ちが一つになる場面は感動的だが、コロナ禍を含め「早く元の世界に戻ってほしい」という切実な願いもまた、美しい響きの背後には込められている。■