通奏低音
第九「合唱」と横浜中華街の「ひと皿」 通奏低音
       横浜中華街にも「紅衛兵」の熱狂が訪れた ©️2020記録映画「華僑」製作委員会

第7回

第九「合唱」と横浜中華街の「ひと皿」

首都圏の音楽ファンにとって週末、山下公園の海沿いに建つ神奈川県民ホールでオペラやコンサートを楽しんだ後、隣の中華街に繰り出すのは横浜行きの定番コースだ。だが日本最大の中国人コミュニティとして160年の歴史を持つ中華街が、太平洋戦争終結後に中国と台湾の分断に巻き込まれ、日本で生まれ育った華僑系住民のアイデンティティ(自己同一性)に激震が走った歴史にまで思いをめぐらせる観光客は、少ないはずだ。

1983年に横浜市保土ヶ谷区で生まれた華僑4世の映画監督、林隆太は「中学3年生だった15歳まで、自分が日本人だと信じきっていました。父が日本生まれの中国人だったと知った時は冗談かと思ったほどです」と打ち明ける。母方の祖父が結婚の条件に父の「帰化」を求めた結果、隆太の国籍は最初から日本だった。20代のある日、「台湾解放」のスローガンを掲げ、紅衛兵姿で中華街をデモする父の写真を見つけ「なぜ、同じ日本で暮らす中国人どうしが対立しなければならなかったのか」と大きな疑問を抱いた。

「華のスミカ」を撮影中の華僑4世、林隆太監督
©️2020記録映画「華僑」製作委員会

5年間のアメリカ留学時代、メキシコからの移民家庭と親しくなった。「娘たちは『リュータ』、おばあさんは『アントニオ』と僕のことを別の名前で呼び、食卓にも少しずつ違うものが出てくるといった実態に触れるうち合衆国、あるいはディアスポラ(民族離散)への視点が芽生え、日本の単一民族幻想への疑問を覚えたのです」。帰国後に映画学校で学び、テレビ番組制作会社に勤めた後に独立。プロモーション映像や短編を制作した後、最初に挑んだ長編がドキュメンタリー映画『華のスミカ』(2020年)だ。自身の家族も含め、横浜中華街に生きる華僑たちと正面から向き合い、近現代の生活史をひもとく。

一つのクライマックスは1952年。横浜中華学校で「毛沢東支持の教育が行われた」として教師が追放される事件が起き、学校だけでなく華僑総会をはじめとする中華街全体が大陸系、台湾系に分裂した。林監督は80歳代になった当時の生徒たちを訪ねて回り、「昨日までの同級生、仲良しがある日突然、〝国〟によって引き裂かれる〝人災〟」の悲しさ、愚かさ、再び分かり合うまでの長い道のりを冷静かつ丹念なタッチで再現する。

辛亥革命の発端となった10月10日の中華民国建国記念日「双十節」を祝う横浜中華街
©️2020記録映画「華僑」製作委員会
横浜山手中華学校の1970年集合写真
©️2020記録映画「華僑」製作委員会

忘れられない光景がある。「旧正月に大陸系が催す獅子舞を取材しようと、華僑総会の控室に入った時です。サッカーの国際試合が中継されていて全員が全員、日本チームの応援に熱狂していたのです。『なあんだ、日本にどっぷり浸っているじゃないか』と思ったら、すっかり嬉しくなりました」

林監督も「父の真実を知り、アメリカへ行くまで、自分がどこに着地したいのかわかりませんでした。『日本人でいたい自分』へのこだわりもあったようです。アイデンティティは『自分自身をどう捉えるか』が一番重要だと、アメリカで覚えました。以後、自分の中で中国、日本を分ける考えもなくなって『色々な日本人がいてもいいじゃないか』と考えるように…」と、自らの歩みを振り返る。「僕がアイデンティティと向き合い、自分自身を見つける《華のスミカ》のストーリーに触れながら、華僑だけにとどまらない共生社会、移民全体への認識と理解を広めていただけたら何よりです」

ベートーヴェンはシラーの詩を援用して「交響曲第9番《合唱付》」を作曲、「すべての人類は兄弟になる(Alle Menschen werden Brüder)!」と説いた。音楽に感動した帰途に中華街へ足を踏み入れ、あらゆる中国人と日本人、世界の人々が「ひと皿」を共有する雑踏に身を委ねる……その「何でもあり」の面白さが、「華のスミカ」の原点だ。■