通奏低音
「東」から来た ヴァイグレの繊細さ 通奏低音
               室内楽的な演出のトリスタン 写真©️Barbara Aumüller

第3回

「東」から来た ヴァイグレの繊細さ

今年、2020年は旧東ドイツが旧西ドイツに事実上〝吸収〟されてからの統一30周年にあたる。経済以上に精神の格差解消に時間がかかり、西が東を見下したり、東で外国人排斥の極右思想(ネオナチ)が先鋭化したりといった副作用が今も続く。

19年4月、読売日本交響楽団(読響)第10代常任指揮者に就いたセバスティアン・ヴァイグレは「ベルリンの壁」が築かれた1961年、旧東ベルリンに生まれた。ハンス・アイスラー音楽大学に学び、21歳でベルリン国立歌劇場首席ホルン奏者に採用された生粋のDDR(ドイツ民主共和国=旧東独)人だ。統一後の1990年代半ば、同歌劇場音楽総監督(ゲネラールムジークディレクトーア=GMD)だったダニエル・バレンボイムの勧めで指揮者に転じた。

2008年からはフランクフルト・アム・マイン市立劇場オペラ(通称フランクフルト歌劇場)のGMDを務めている。フランクフルトは欧州中央銀行(ECB)が本拠を置く国際金融都市であり、東西冷戦の分断時代は西側資本主義の牙城だった。統一直後には「オッシー」(DDR出身者)を見下す風潮すらあった。

歌劇場オーケストラの奏者出身のヴァイグレは、指揮者と楽員が「縦」ではなく「横」の関係で同じプラットフォームに立ち「ともに音楽をする」姿勢を強く打ち出した。ヴァイグレは過去12シーズンを振り返り、こう語った。「フランクフルトの楽員たちは好奇心旺盛で働くのが大好きです。互いの音を注意深く聴き合い、指揮者と一体になって絶えず『より良い音』を究めます」。フランクフルトはドイツの専門誌「オーパーンヴェルト(歌劇の世界)」選出の「年間最優秀オーケストラ」「年間最優秀歌劇場」に輝く名声を、ヴァイグレとともに築いてきた。

そして20年1月19日。「トリスタンとイゾルデ」(ワーグナー)新演出上演の初日、ヴァイグレが「前奏曲」を振り出した瞬間に弦の緻密な美しさ、ダークで味わいのある音色に驚かされた。

トリスタンのヴィンチェント・ヴォルフシュタイナー、イゾルデのレイチェル・ニコルズ、ブランゲーネのクラウディア・マーンケ、マルケ王のアンドレアス・バウアー=カナブスら、主要キャストはカタリーナ・トーマの室内楽的演出コンセプトに合致し、マッチョで血湧き肉躍るワーグナー解釈とは一線を画す演技と歌唱に徹した。ヴァイグレの指揮も演出と完全に一体化、繊細きわまりない管弦楽が新時代の劇場表現を印象づけ、秀逸だった。

カーテンコールの熱狂的な歓声、終演後のレストランに現れたヴァイグレを囲む人々の称賛を見るにつけ、「西で最も成功した東の音楽家」なのだと思った。危険な展開もあるにせよ、音楽が人々の心を一つに溶け合わせる力は時に政治や経済より強く、即効性がある。■