通奏低音
「氷見の第九」に破格の大物、寒鰤と並ぶ名物に 通奏低音
        6月に急逝した林正之前市長の遺志を継ぎ、「レクイエム」のプロローグ付きで開かれた2025年版の「氷見の第九」 

第31回

「氷見の第九」に破格の大物、寒鰤と並ぶ名物に

「お忙しいとは思いますが、冬の氷見へ、私たちと地元アマチュア合唱団の歌を聴きに来ませんか?」――2025年11月も半ばに至り、旧知のオペラ歌手2人から勧誘メールの〝はさみうち〟に遭った。1人は富山県出身のテノールで氷見市にもルーツがある澤武紀行、もう1人は東京都出身のソプラノの天羽明恵。ともにドイツ各地の歌劇場で同じ時期に歌っていた。

私とは2014年7月、札幌市の国際教育音楽祭「PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)」でR・シュトラウスのオペラ《ナクソス島のアリアドネ》を取材した際、ツェルビネッタ役の天羽からブリゲッラ役の澤武を紹介されて以来、旧知の間柄だったうえ、氷見は亡き義父の故郷で、3年前に訪れた経験もあった。

2025年12月7日、氷見市芸術文化館ホールの公演は「氷見第九合唱団クリスマスコンサート」と名付けられていた。第1部はベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調作品125《合唱付》」の第4楽章、第2部は天羽と澤武、加納悦子(メゾソプラノ)、甲斐栄次郎(バリトン)のソリスト4人が得意のアリアを競い、合唱団と共演する「オペラティック・スペシャル・ステージ」、第3部は「クリスマスソング、《民衆の歌》(ミュージカル《レ・ミゼラブル》)ほか」と予告されていた。会場へ着くと《第9》に先立ち、「〜追憶〜前氷見市長林正之氏を偲んで」と題されたプロローグが追加され、モーツァルトの「レクイエム(死者のためのミサ曲)」の抜粋が澤武の指揮で献奏された。

加納悦子(中央)のカルメンと堂々渡り合う氷見第九合唱団のメンバー

氷見市出身の林は富山県庁職員(最後は土木部長)から2017年、氷見市長に転じた。2期目の任期中だった24年8月に膵臓がんを公表、同年10月の選挙で菊地正寛に後事を託した後、25年6月8日に68歳で亡くなった。

林は魚津市で開かれた「万葉集」関連の催しで澤武の歌に感銘を受け、18年6月の「HIMI万葉フェスティバル」のために万葉長歌「布勢水海に遊覧する賦」への作曲を澤武に依頼した。さらに22年10月の芸術文化館オープニングを「第九」で飾ろうと「氷見第九合唱団創設」実行委員会を市教育委員会主導で立ち上げ、21年1月には「氷見第九総監督」に就いた澤武によるドイツ語講座が始まった。

22年6月以降は天羽も指導に加わった。いまだコロナ禍にあった同年10月8日の文化館こけら落としではマスクを着用し、「第九」の第4楽章を披露するに至った。「クリスマスコンサート」も同年から毎年、12月に行ってきた。24年元旦には能登半島地震が発生、氷見も多大の被害を受けたが、活動は中断しなかった。

4回目となった25年は澤武、天羽にケルン市立歌劇場専属だった加納(国立音楽大学教授)、ウィーン国立歌劇場専属だった甲斐(東京藝術大学教授)が加わり、ドイツ=オーストリア圏の歌劇場でカペルマイスター(楽長)を歴任した村上寿昭(一般社団法人東京オペラNEXT代表理事・音楽監督)を指揮者に招いた。澤武は「ヨーロッパ時代のオペラの〝戦友〟たちに呼びかけ、集まってもらった」と説明し、指揮とソロを東京のプロ・オーケストラ並みの顔ぶれへと一気にアップグレードした。

アンコールの「きよしこの夜」は出演者全員が参加した

「第九」は今や日本の歳末を彩る風物詩に定着、全国各地に存在するアマチュア合唱団の間には「横」の連絡もある。「今年の氷見はすごいらしい」と噂が広まり、ソリストそれぞれに縁の人々も加え、愛媛県や長野県からも応援メンバーが駆けつけ、人数は165人に膨れ上がった。澤武の熱く厳しい指導の成果は明らかで、地域のアマチュアによる「第九」の合唱では稀なほどディクション明晰で、心のこもった演奏だ。それでもオペラまで経験した人は少なく、第2部のプロ歌手との〝からみ〟は初めての挑戦だった。第3部のミュージカルでは菊地市長も旗を振りながら行進の先頭に立ち、このコンサートが今や氷見市挙げての一大イベントである実態を強く印象付けた。

ミュージカル場面の先頭に立つ菊地正寛・氷見市長

澤武と氷見第九合唱団、氷見市の挑戦は、これにとどまらない。27年11月には「能登半島地震復興支援」の掛け声の下に全国の「第九」愛好者を同市へ招き、「氷見《1000人で歌う歓喜の歌》」コンサートを開く計画だ。26年12月6日、氷見市芸術文化館のクリスマスコンサートは「北陸第九」と銘打ち、富山県出身の澤武、石川県出身の石川公美(ソプラノ)、福井県出身の山崎和華(アルト)、新潟県出身の野口雅史(バス)がソロを担う。近い将来、「第九」が寒鰤かんぶりと並ぶ氷見の冬の代名詞になりそうな勢いだ。=敬称略■