通奏低音
長嶋茂雄の一期一会、勝負の後のモーツァルト 通奏低音
          長嶋茂雄(中央)と井上道義(右)、マリ・クリスティーヌ(左)   提供=読売日本交響楽団

第28回

長嶋茂雄の一期一会、勝負の後のモーツァルト

2025年6月3日に「ミスタージャイアンツ」、プロ野球選手の長嶋茂雄(1936—2025)が89歳で亡くなった。訃報が届いた直後、私は「X」(旧ツイッター)に「確か2003年の東京芸術劇場だった。長嶋茂雄が読響演奏会(井上道義指揮)のゲストに招かれ『勝負師ですから勝った晩、負けた晩それぞれに聴く音楽というのがあるのですが、両方に通用するのはモーツァルトだけです』と、もの凄いストライクゾーンの名言。楽屋はミスターにサインを求める楽員長蛇の列!」と投稿した。フリーの音楽ジャーナリストのアカウントが6万件近いアクセス(6月25日現在)を喚起すること自体、日本人の長嶋に対する強い思いの現れに違いないが、中には「本当に言ったのか?」「ミスターとクラシック音楽が結びつかない」といった書き込みもあった。真相を詳しく書く。

件(くだん)の演奏会、「読売日響いい人いい音」は2003年7月31日、池袋の東京芸術劇場大ホール(現コンサートホール)で開かれた。主催は読売新聞社と日本テレビ放送網、読売テレビ、読売日本交響楽団。指揮者は井上道義(1946―)、進行役はタレントのマリ・クリスティーヌ(1954―)が「異文化コミュニケーター」の立場で務めた。公演フライヤー(ちらし)には「長嶋茂雄氏をゲストに迎え、数々のエピソードとオーケストラの迫力ある演奏で心温まる、爽やかな時をお過ごしください」とある。トークゲストの長嶋は「お客様:読売巨人軍終身名誉監督、アテネ五輪野球日本代表監督」と記され、2004年3月4日に脳梗塞で倒れる7か月あまり前のイベントだった。

長嶋や主催メディアからのリクエストを取り入れ、井上が組んだプログラムは次の通り。

・黛敏郎「NTVスポーツニューステーマ」

・ワーグナー「楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》から第1幕への前奏曲」

・モーツァルト「交響曲第40番ト短調K.550」から第1楽章

・プロコフィエフ「組曲《ロメオとジュリエット》から《モンタギュー家とキャピュレット家》《タイボルトの死》」

・喜納昌吉《花(すべての人の心に花を)》

・エルガー「行進曲《威風堂々》第1番」

入門者向けの〝通俗名曲〟ではなく、かなり通好みの作品が並んでいる。

2024年末で指揮者を引退した井上は、長嶋の死を受け、オフィシャル・ウェブサイトで驚くべき裏話を明かした。「読売テレビ側全員が彼(長嶋)にスポーツニュースのテーマを振らせたいと言っていて、マネジャーに断られたので、僕にお願いされれば断れないだろうからと、本番で『振ってみませんか?』と言わされた」。しかし、ミスターの回答は「NO」だった。「私はそんな失礼なことはできません。皆さん(筆者註:指揮者と楽員の全員を指す)子どもの頃から毎日練習してここまで来ておられるのですから、専門家の世界なのですから、できませんよ」と、長嶋は「慇懃に」断った。井上は「紳士だな」と感心、「世の中に『1分間指揮者コーナー』なんかあるけれど、指揮なんて誰でもできちゃうんだと思ってしまう悪い常識だな、これは」と、2025年6月5日に記した。

本番は演奏の合間に長嶋と井上、クリスティーヌの鼎談をはさむ形で進行、ミスターは終始上機嫌だった。突然の〝衝撃〟は「モーツァルトの40番」のところでやってきた。この作品は第41番まであるモーツァルトの交響曲の中で第25番と並ぶ、たった2曲の短調で書かれ、フランスのポップス歌手シルヴィ・ヴァルタン(1944―)が、1971年に歌詞付きの編曲「哀しみのシンフォニー」をリリース、日本で大ヒットしたことでも知られる。クリスティーヌが「監督、モーツァルトはお好きなのですか?」と尋ねた時に飛び出したのが、このコラムの冒頭の「X」で引用した一言だ。少し詳しく書くと、長嶋は「意外と思われるでしょうが、クラシック音楽は良く聴きます。監督時代は自宅だけでなく、大阪や名古屋の定宿にもCDを再生する装置を置いていました」と明かし、試合に「勝った時、はしゃぎ過ぎをクールダウンする曲」「負けた時、落ち込んだ心を鼓舞する曲」を「色々とそろえているのですが、その両方に使えるのはモーツァルトだけです」と詳述したのだ。確かに「40番ト短調」は哀しみの中に、一筋の光明がある。

 

もう一つ。喜納昌吉の《花》のオーケストラ編曲を指揮する前、井上が「この曲、どこがいいのですか?」と挑発するように質すと、長嶋は「マエストロ」と優しく切り出し、「この世に花の嫌いな人はいません。マエストロが海外のお仕事から帰国される際、NARITAと植え込まれた滑走路脇の花壇が目に飛び込むはずですが、あの花は私がお手伝いしている日本花の会のボランティアの皆さんと一緒に植えたものなのです」と語った。井上は一言「まいったな」と漏らし、《花》に心をこめて指揮せざるを得なかった。

終演後に長嶋、井上を囲んで楽員たちが記念撮影提供=読売日本交響楽団

面白かったのは、長嶋は指揮者の尊称がイタリア語で「巨匠」を意味するマエストロであるとわかっていたにもかかわらず、オーケストラのメンバーを「楽員」と呼ぶことは知らなかった点だ。「マエストロとスタッフの皆さん!」と声をかけられるたび、読響楽員の肩から力が抜けてしまったようで、オーケストラが時間の進行とともに柔らかく、良い音へと変わっていくのも、ミスターのマジックだったと思える。通常のイベントでは出番が終わると引き上げる長嶋だったが、この日は破格の上機嫌で終演後も楽屋にとどまった。井上に挨拶しようと「裏」に回ると、そこには読響楽員の長蛇の列。皆がこぞって長嶋にサインを求め、握手をし、集合写真で盛り上がる。良い光景だった。■