通奏低音
ロマ族をいかに跨ぐか、21世紀の『カルメン』 通奏低音
              難民たちの近未来を描いたイリーナ・ブルック演出、東京二期会の《カルメン》 
                 撮影=寺司正彦、提供=公益財団法人 東京二期会

第26回

ロマ族をいかに跨ぐか、21世紀の『カルメン』

今年、2025年はフランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー(1838~1875)の没後150年。死の直前に完成した傑作オペラ《カルメン》の初演150年でもある。題名役のカルメンは1845年に同国の作家プロスペル・メリメ(1803~1870)が生み出したキャラクター。誕生から数えれば180歳の長寿だ。2月には東京二期会がイリーナ・ブルック(1962~)、新国立劇場がアレックス・オリエ(1960~)の演出でそれぞれの《カルメン》を競った。

 

1943年にはキャスト全員がアフリカ系アメリカ人のミュージカル「カルメン・ジョーンズ」(1954年に20世紀フォックスが映画化)に転生した。1951年の邦画初のオールカラー映画「カルメン故郷に帰る」(松竹)では高峰秀子がストリッパーの「リリィ・カルメン」に扮した。さらに1969年にはカルメン・マキという芸名の歌手が寺山修司作詞の「時には母のない子のように」をヒットさせて紅白歌合戦に出場、1977年のピンク・レディー「カルメンʼ77」もミリオンセラーを記録するなど、日本でもカルメンは生き永らえてきた。原作オペラの日本初演は明治18年(1885年)の横浜だから、今年はその140周年でもある。

スペインのセビリア、タバコ工場に身を置くカルメンはエキゾティックな美貌と色香で男たちを惹きつけるが、鼻っ柱が強く一つところ、あるいは一人の恋人に〝定住〟することはない。地方出身の伍長ドン・ホセは同郷の許嫁ミカエラの強い愛を受けつつも、カルメンの色香に堕ちる。気まぐれなヒロインがスター闘牛士エスカミーリョに乗り換えると嫉妬に狂い、最後は刺し殺して しまう。

一見、痴情のもつれを描いたソープオペラ風の物語に対してビゼーは多彩な音楽を与えたが、実際のスペイン音楽の引用はヒロインの最も有名なアリア「ハバネラ」1曲にとどめ、後は完全なオリジナルというから驚く。さらに驚くべきは、縦軸にミカエラやホセが背負うヨーロッパのキリスト教世界、横軸に「漂流する民」ロマ族のカルメンや仲間たちが体現する自由という過酷な対立の図式が、物語の根本に存在するという作品設計自体だ。台本(アレヴィ&メイヤック)は「ジプシー」をフランス語の「ジタン」ではなくイタリア語の「ジンガラ」「ジンガレッラ」としたが、 今日の人権コードでは「ジプシー」自体が使えず、日本語の対訳字幕も「ロマ族」に改められた。

東京二期会、イリーナ・ブルック演出《カルメン》の幕切れ。カルメンの加藤のぞみ(手前)とホセの城宏憲
撮影=寺司正彦、提供=公益財団法人 東京二期会

いかに「ジプシー」を避けるか、は現代の演出家にとって大きな課題だ。今年、生誕100年を迎える偉大な演出家ピーター・ブルック(1925~2022)を父に持つイリーナは、二期会が日本の上演団体であることを拠り所にした。「フランス語のセリフ部分を省いて純粋な歌の物語とする一方、スペインの民族臭を取り除き、日本人には馴染みが薄いヨーロッパのロマ族の問題を、世界共通の難民問題の近未来像に置き換えました」と、イリーナは読み替えの意図を語ったが、対立の図式が曖昧になった感は否めない。読売日本交響楽団を指揮した沖澤のどかも切れ目や拍手の間を可能な限り縮めた「声楽オブリガート(助奏)付きの交響詩」のような音楽で応えた。バレンシア 在住のメゾ・ソプラノ加藤のぞみの題名役だけが、かすかにスペインの〝残り香〟を漂わせた。

新国立劇場オペラ、アレックス・オリエ演出の《カルメン》はスペインのロックシンガー、今回はサマンサ・ハンキーが演じた。撮影=堀田力丸、提供=新国立劇場運営財団

バルセロナを本拠とするスペインのアーティスト集団「ラ・フーラ・デルス・バウス」6人の芸術監督の1人、オリエも新国立劇場で「日本を舞台にする《カルメン》」を2021年につくり、ロマ問題を切り離した。新演出初演時は新型コロナウイルス対策の「社会的距離の設定」に対応したため合唱は横並び、カルメンとホセの間にも隙間風が吹いたため、2025年の再演に際して日本に 戻り、本来の演出意図に沿った舞台を完成した。

新国立劇場オペラの《カルメン》は鉄パイプを効果的に使う。サマンサ・ハンキーのカルメン(右)とアタラ・アヤンのホセ。撮影=堀田力丸、提供=新国立劇場運営財団

カルメンはスペイン出身のロックシンガー、エスカミーリョは闘牛士のままという設定の理由をオリエに尋ねると「2人は東京で開催中のスペイン・フェスティバルの出演者。スペイン人の私にとって《カルメン》からスペインの要素をなくすことは不可能なのです」と答えた。対立の図式はコンサートや闘牛の警備に当たる日本の警察組織(ホセもその一員)のタテと、世界をかけ めぐるアーティストやアスリートの奔放なライフスタイルのヨコとで、それなりにはっきりと打ち出していた。カルメン役の美声メゾでチャーミングなアメリカ人サマンサ・ハンキー、エスカミーリョ役のポーランド人バス歌手ルーカス・ゴリンスキーがゴージャスな雰囲気を打ち出し、ホセの頼りなさを巧みに演じたブラジル人アタラ・アヤン(テノール)、日本社会の秩序を強い意思とともに代弁したミカエラ役ソプラノの伊藤晴の2人と明確な対照を描き、東京交響楽団を指揮し たガエターノ・デスピノーサのメリハリのきいた音楽ともども、強い説得力を放った。

記念年だけに《カルメン》の上演はまだまだたくさん、日本各地で予定されている。次のカルメンは一体どのような舞台設定、いでたちで私たちの前に姿を現すのだろうか?■