第25回
夭折のチェリスト、山本栞路の「栞」に
2023年4月26日。桐朋学園大学音楽学部特待生で演奏家としても頭角を現しつつあったチェリスト、山本栞路(やまもと・かんち)さんが白血病により、21歳の若さで天に召された。千葉大学医学部附属病院で300日に及んだ入院生活は「音のない世界」だった。周囲の患者さんとの日常会話にも気を遣うばかりか、院内での楽器演奏や練習は固く禁じられていた。栞路さんはストレスのあまり、右耳の突発性難聴も発症したという。
「入院患者には社会復帰へ向けた身体のリハビリテーションと同じように、『心のリハビリ』のできる環境が必要です。声を出して泣いたり、歌ったり、はっきりした声で思う存分通話したり、リモートワークや授業に取り組んだり、音楽を全身で浴びたりできる環境を全国の病院に整えていきたいと思います」
栞路さんの父親で学習院高等科の英語教諭、昭夫さんは葬儀に集まった人々の面前で「息子の防音室の夢を叶えたい」と宣言した。没後50日祭のタイミングで「病院へ防音室を寄付する」ための任意団体「M for M(ミュージック・フォー・メディシン/メディシン・フォー・ミュージック)」を立ち上げ、最初の寄付先を千葉大学附属病院と定めた。
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防音室の設置費用は約1,500万円。没後1年直後の2024年4月30日には堤剛、山崎伸子、長谷川陽子、新倉瞳と日本を代表するチェリストをはじめ、久保田巧(ヴァイオリン)、佐份利恭子(同)、佐々木亮(ヴィオラ)、市川雅典(コントラバス)、有吉亮治(ピアノ)、鈴木優人(チェンバロ)、さらに桐朋同級生のフルート奏者でタレントとしても活動する木村心美(COCOMI)栞路さんと「Trio Spera(トリオ・スペラ)」を組んでいた堀内優里(ヴァイオリン)、望月晶(ピアノ)らが集まった「チャリティーコンサートM for M」を東京のサントリーホール・ブルーローズで開催した。
「出演者、聴衆の皆さんの思いが一つになり、どこかで息子も一緒に聴いている気がする特別な時間」(昭夫さん)だったが、「寄付金の積み重ねだけでは実現のメドがなかなか立たない、と思い知りました」。そこでクラウドファンディングの活用を決め、11月に「READYFOR」で「病院に防音室設置 | 夭折のチェリスト『山本栞路』の想いを叶えたい」のサイトを開いた。
第1目標の350万円は9日間で達成、次の10日間で700万円に届き、12月30日の終了時点で第1目標額の300%を超えた。返礼品の中には2025年4月30日、堤や鈴木らが再び集まり東京の紀尾井ホールで行う第2回チャリティー・コンサートのチケットもある。ファンディングの過程で防音室にノウハウを持つヤマハ、楽器製作者の文京楽器なども協力を申し出た。「入院患者のいる全国の病院に防音室が標準設置されるまで、M for Mは続きます」
「しおり」と「みち」。栞路の名前は「人の道標となるように」との願いをこめて付けられ、松尾芭蕉「奥の細道」の「道に栞を置く」とも関係する。母の昌代さんは一人息子の栞路さんが1歳の時のクリスマスに16分の1サイズのヴァイオリンを贈った。「トナカイさんの食事、と言って11月にドングリを集めると翌月、プレゼントが届くストーリーでした」。
2歳のクリスマスに同じく10分の1サイズのチェロが届くと大喜び。最初は両方の楽器を弾いていたが、3歳で才能教育研究会(鈴木メソード)の本格的な弦楽器教育を受け始めた際に「混乱を避けるため」、昌代さんが本人の希望を尋ねると「大きい方がいい」といい、チェロを選んだ。
「コミュニケーションのツールとして弾いていたのか、言葉を覚えるように上達、最初から伝えたいメッセージがはっきりとしたチェロでした。大人に近づいても伸びやかさが際立って『規格外』と評価され、コンクールで審査員の先生から『採点する前に聴き入ってしまいました』と褒められたこともあります」と、昌代さんは振り返る。小学生時代から多くのコンクールで第1位を得て新人賞も受賞、将来有望な演奏家を起用する舞台からも頻繁に声がかかった。情熱をこめスケール雄大に歌い上げる演奏は高く評価され、一般聴衆の感動も誘った。堤剛が音楽監督を務める霧島国際音楽祭に参加し、鈴木優人の知遇も得るなど、栞路さんの活躍の場は広がる一方だった。
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入院後も独学でフランス語をマスターするなど、世界に羽ばたくための努力を怠らなかったという。寝ずの番をしていた両親に臨終の床から「寝た方がいいよ」と声をかけ、最後の言葉は「お父さんとお母さんの子どもに生まれて良かった」。私は「竹取物語」のかぐや姫を咄嗟に思い出し、昭夫さんと昌代さんに対し「栞路さんはご夫妻が天から一時的に預かり、音楽とともに天へと帰った神の子ではなかったのですか」と、愚にもつかない感想を伝えた。すると「実は私たちも、そのような思いなのです」と答え、1996年に愛媛県の久万高原天体観測館が発見した小惑星「カンチ」の存在を教えてくれた。「いま栞路は星空の小惑星に戻り、私たちのことを見守ってくれている気がします」■