第23回
小澤征爾なき「松本フェス」、沖澤のどかに光
1992年に長野県松本市で始まった世界水準の音楽祭「セイジ・オザワ松本フェスティバル」(OMF=2015年に「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」から名称変更)。2024年は創設者で今も「総監督」のタイトルを持つ指揮者、小澤征爾(1935―2024)が亡くなって初めての開催となった。音楽祭の核をなす腕利き集団「サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)」は桐朋学園の音楽教育の始祖で小澤の恩師、齋藤秀雄(1902―1974)の没後10年に教え子たちが集まった「桐朋学園齋藤秀雄メモリアル・オーケストラ」を母体とするので、今年は齋藤の没後50年とSKOの40周年、さらに小澤の死が重なる特別な節目となった。
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小澤は最後の最後、SKO首席客演指揮者に2022年のフェスティバルでオペラ《フィガロの結婚》(モーツァルト)を指揮して大成功のデビューを飾った京都市交響楽団常任指揮者の沖澤のどか(1987―)、ブラームスの交響曲全曲(第1~4番)演奏会の客演指揮者に2022年秋の30周年記念コンサート(松本市と長野市で開催)のマーラー「交響曲第9番」で深い感動を残したラトヴィア人アンドリス・ネルソンス(1978―)を指名して世を去った。
先ずはボストン交響楽団音楽監督とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団カペルマイスター(楽長)を兼ね、客演でも大忙しのネルソンスのスケジュールを確保、その前後に沖澤が指揮するコンサート、小澤征爾音楽塾オーケストラと日本の新進歌手によるオペラ《ジャンニ・スキッキ》(プッチーニ)を配する日程を組んだだめ、フェスティバルの開催日程が初めて、8月半ばの「お盆」連休と重なった(例年は8月末から9月初め)。
小澤が世界に羽ばたくきっかけは、1959年の仏ブザンソン国際指揮者コンクール優勝だった。そのちょうど60年後の優勝者である沖澤は、一度「こう」と決めたら一切の迷いなく振り続ける潔さ、楽曲への大胆な切り込み、息の長いフレージングなどを通じ、短期間で一線に躍り出た。首席客演指揮者の「お披露目」に当たった8月10&11日の「オーケストラ コンサートAプログラム」ではメンデルスゾーンとR・シュトラウスの作品を並べた。とりわけ後者の《4つの最後の歌》(ソプラノ独唱=エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー)で小澤への深い追悼の思いをSKOの全員と共有、深い余韻を残して幸先のいいスタートを切った。
あとはオペラのリハーサルに専念するはずだったところ、ネルソンスが急に体調を崩して来日をキャンセルしたとの一報が届く。沖澤はブラームスの前半2曲の代役を引き受け、オペラ指揮は村上寿昭(1974―)が肩代わりすることになった。ブラームスの後半2曲では第3番をNHK交響楽団正指揮者の下野竜也(1969―)、第4番をSKO長年のホルン首席で山形交響楽団ミュージック・パートナーのチェコ人ラデク・バボラーク(1976―)が振り分ける緊急事態に至った。
期待と不安の入り混じる中で始まった「オーケストラ コンサートBプログラム」。沖澤はSKOの潜在能力を極限まで引き出し、もの凄い音圧と気迫の第1番を振りながら、自身の音楽解釈を主張する場面では強烈なコントロール能力も発揮した。第2番も滑り出しこそ慎重だったが、ホルンのバボラークらSKOの全員が懸命に盛り立て、最後は第1番に匹敵する熱狂で着地した。「やはり彼女は何かを持っている」「小澤さんの死後半年にして、松本は希望の光を見出した」「天国で小澤さんも大喜びしているに違いない」…。SKOのメンバーたちは終演後、奇跡的な成功の興奮を語り合っていた。
下野とバボラークが分担した「オーケストラ コンサートCプログラム」には沖澤との破格のケミストリー(化学反応)こそなかったものの、SKOの強い表現力を改めて実感させる水準の演奏に仕上がった。オペラもドイツ語圏の歌劇場でカペルマイスターの経験を積み、長く小澤のアシスタントを務めた村上が危なげのないリードで若手オーケストラをまとめ、歌手たちの持ち味をよく引き出していた。小澤の不在、ネルソンスのドタキャンという波乱にもかかわらず、沖澤の大健闘とSKOの全力投球で国際音楽祭のデフォルトを維持し、来年以降の展開に望みをつなぐことができたのは幸いだった。
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私は過去30年、自分の車で中央道を走り東京と松本を往復してきた。だいたい片道3時間半から4時間で、日帰りもしばしばだった。ところが沖澤の「Aプログラム」2日目の8月11日(日曜日)、中央道下りの「お盆渋滞」は前日の連休初日と同じ凄まじさで、品川の自宅から会場のキッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)まで6時間を要した。新宿からの高速バス利用者はもっと大変だった。JR中央線の特急「あずさ」も帰省客や旅行者で早くから満席で「仕方なくバスにした」人も多いなか、せっかくのコンサートのチケットを無駄にしたり、後半しか聴けなかったりするケースが続出した。
20日以降はお盆に休んでいた中央道補修工事が再開されたため、同じように長い時間のかかる日があった。移動のリスク自体は各人が負うべきものだが、遅れてきた聴衆の途中入場のマニュアルが徹底せず、担当者も楽曲の内容に疎くてタイミングを逸しがちなのは、広域からの聴衆動員を前提にした音楽祭のあり方としてどうだろうか?開演時刻を遅らせる判断もあくまで松本市内の交通状況に基づいていたようで、小澤全盛時に比べると、フェスティバルを支える側の視線が内向きになりつつあるのは気になった。■