第22回
メトロポリタン、新作と新演出の冒険
世界屈指のオペラハウス、ニューヨークの文化的洗練を体現する「文化大使」の役目も担ってきたメトロポリタン歌劇場(MET)。2020年以降のコロナ禍で一時は閉鎖の危機に見舞われたが、作品と演出(プロダクション)の両面で新旧のバランスを巧みにとるピーター・ゲルブ総裁(1953―)の采配が功を奏し、全く新しい観客層の獲得に成功しつつある。2024年6月には現在の音楽監督(2018年就任)でフランス系カナダ人指揮者のヤニック・ネゼ=セガン(1975―)とMETオーケストラ(メトロポリタン歌劇場管弦楽団)の組み合わせで初のアジア・ツアーも成功させ、「MET新時代」を強く印象づけた。
東京公演でピーター・ゲルブ総裁に聞く
東京公演の合間にゲルブ総裁を訪ね、7年ぶりのインタビューを行った。
――先月(2024年5月)、ニューヨークの本拠で21世紀の《めぐり合う時間たち》(ケヴィン・プッツ)、《エル・ニーニョ》(ジョン・アダムズ)、19世紀の《カルメン》(ビゼー)と3作品を観てきたところです。どれも客入りが良く、斬新なヴィジュアルも普通に受け入れられている状況に、METの新時代を実感しました。
「新型コロナウイルスの世界拡大(パンデミック)を境に多くの古いお客様を失ったのは事実ですが、事態が落ち着きを取り戻した現在、より若く、新しい人々が増えています。2023/2024年のシーズン、観客の平均年齢は44歳でコロナ前より6歳下がりました。はっきりとしたのはチケットセールスの中心が定期会員から1回券に移ったことで、もはや1回券が全体の88%を占めています。定期会員の平均年齢は70歳くらいのままなので、若返りは1回券の観客が増えた結果です。今シーズン、『METを初めて訪れた』という観客は17万人を数え、とりわけ新作に強い興味を示す傾向にあります。6月のシーズン終了にかけては、全公演が売り切れました」
――新しい観客の支持を受け、2024/2025年シーズンも《グラウンデッド》(ジャニーン・テソリ)、《アイナダマール》(オスバルド・ゴリホフ)、《白鯨》(ジェイク・ヘギー)、《アンソニーとクレオパトラ》(ジョン・アダムズ)と現代オペラが4つも入っています。アダムズは今年の《エル・ニーニョ》に続き、2年連続のエントリーですね。
「私の信条は『博物館以外、すべてのアートは絶えず進化する』です。新しいアイデアや作品に対し、臆病であってはなりません。いかなるアートもビジネスも〝正しいギャンブル〟を通じ、チャンスをつかまなければ先はないのです。長い歴史を持つオペラの分野であっても最新のテクノロジー、視覚、ダンスを取り込めば、現代の文化としての会話が十分に成立します。ミュージカルの増幅された音響が言葉をより聴き取りやすくするのは確かで、鑑賞の敷居も低いのですが、音楽の虜になればなるほどオペラの良さにも目覚めるはずです。私は優れた演奏家、素晴らしい視覚、新鮮なストーリーを揃え、人々がもう1度、オペラを体験する可能性を提供しています。アダムズは現代アメリカを代表する作曲家で高い人気にもかかわらず、私が来るまでMETは無視していました。就任後、《ドクター・アトミック》《中国のニクソン》《クリングホーファーの死》《エル・ニーニョ》と続け、《アンソニーとクレオパトラ》で5作目になります。新しい路線の定着には、サスティナビリティ(持続可能性)の視点も欠かせません」
――主に国公立のヨーロッパ、半官半民の日本と異なり、アメリカのオペラハウスは民間スポンサー主体の運営です。METのパトロンの年齢層は高そうですが、新しい路線への反応は賛否両論といったところですか?
「2024年のMETへの寄付金総額は約1億6000万ドル(1ドル=160円の換算で約256億円)に達し、オペラハウスとしては世界最高額だと思います。ジェフ・ベゾスやビル・ゲイツといった新世代の経営者はアートへの利益還元に熱心とはいえず、METへの寄付の大半は高齢世代の小口。1億ドル級の大口の実態は、かつてのスポンサーが亡くなられた際の遺贈です。高齢世代のファンをないがしろにするつもりはさらさらなく、何事にもバランスが重要です。全くの新作、名作の新しいプロダクションの一方では、フランコ・ゼッフィレッリ演出の《ラ・ボエーム》《トゥーランドット》(いずれもプッチーニ)をはじめ、時代を超えた古典として定着した舞台の上演も続けてきました。今も絶えずバランスに目を配りつつ、新しい形のファンドレイジングを模索しています」
――名作のヴィジュアル一新では、英米の演劇畑で頭角を現した比較的若い世代の演出家の起用が目立ちます。
「決め手は『信頼に値する優れたストーリーテラー(物語の語り部)』の1点で、国籍や年齢は問いません。以前ワーグナーの大作、《ニーベルングの指環》4部作などを委ねたロベール・ルパージュはフランス系カナダ人ですし、来シーズン《サロメ》(R・シュトラウス)の新演出を手がけるクラウス・グートはドイツ人です。《エル・ニーニョ》の演出家リリアーナ・ブレイン=クルーズはMETのお隣、リンカーン・センター劇場での優れた仕事ぶりに目をつけ、『オペラでは何が演出したいですか?』と声をかけたら即座にこの作品を挙げ、美しい舞台を素晴らしく情熱的に創造してくれたのでした」
――2006年から総裁を務められ、長期政権と目されています。
「いいえ、来シーズンでまだ(笑)19年目です。ミラノ・スカラ座からやって来たジュリオ・ガッティ=カサッザは当初英語を全く介さなかったにもかかわらず、1908年から35年まで27年間も総裁に君臨、伝説の大テノール歌手エンリーコ・カルーソーらとともにMET初期の黄金時代を築きました。マリア・カラス、レナータ・テバルディら偉大なプリマドンナを招いたオーストリア出身のルドルフ・ビングは1950〜72年の22シーズンです。私は音楽事務所で働き始めた(17歳の)時から、音楽をより魅力的なものとして、より多くの人々を結びつける可能性に人生のすべてを捧げてきましたし、これからもそうあり続けるでしょう」
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経営という視点から、世界トップクラスの歌劇場の「舞台裏」を垣間見た80分だった。