通奏低音
現代に舞い降りた「映画のプッチーニ」 通奏低音
            『テノール! 人生はハーモニー』  アントワーヌ役のラッパー、MB14(左)とマリー役のミシェル・ラロック(右)
              © 2021 FIRSTEP - DARKA MOVIES - STUDIOCANAL - C8 FILMS

第17回

現代に舞い降りた「映画のプッチーニ」

日本人を主人公にしたオペラ『蝶々夫人』の作曲家ジャコモ・プッチーニは来年(2024年)、没後100年を迎える。イタリア・トスカーナの古都ルッカで1858年、代々続く教会音楽家のファミリーに生まれたが、早くからオペラ作曲家を目指してミラノで学び、1893年の第3作『マノン・レスコー』で初の成功を収めた。上等のスーツに身を包み、当時最先端の自動車を乗り回す伊達男だったキャラが影響したのか、薄幸で可憐、あるいは気丈なヒロインにとびきり美しいアリアを書き与え、観客の涙を誘うのに長けていた。

時に「お涙頂戴」と批判されたメロディーは大衆の心をとらえ、世界中に広まっていく。根底には何代もかけて練り上げられた高度の作曲技法、台本作家との入念な共同作業を通じて極めた巧みな心理描写があり、後の時代のミュージカルや映画音楽に多大な影響を与えた。プッチーニ自身、勃興期にあったハリウッドの映画産業に興味を示し、伝統的な幕立てやアリアの形式ではなく映画の場面展開を意識、無調など斬新な技法も織り込んだ『西部の娘』を1910年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演している。

2023年も「映画のプッチーニ」あるいは「プッチーニの映画」は健在だ。6月に日本公開されたクロード・ジディ・Jr.監督のフランス映画『テノール! 人生はハーモニー』は、パリ・オペラ座が舞台。荒んだ生活を送るラッパーの青年アントワーヌ(MB14)が不治の病を抱えるオペラコーチの女性マリー(ミシェル・ラロック)に類まれな美声を見出され、新たな人生の扉を開いていく。

オペラ座の場面には世界的テノール、ロベルト・アラーニャが本人役でゲスト出演し美声も披露するが、アントワーヌがアラーニャに出身地区を尋ねる場面は、ひとつの「肝」に思えた。

『テノール! 人生はハーモニー』
世界的テノールのロベルト・アラーニャ(右)と出会うラッパーのアントワーヌ(MB14)
© 2021 FIRSTEP - DARKA MOVIES - STUDIOCANAL - C8 FILMS

地名クリシー=ス=ボワ(Clichy-sous-Bois)と答えた瞬間、アントワーヌは意外そうな表情を浮かべる。パリ郊外のクリシーは第二次大戦後、大量の移民を受け入れるために整備され、治安も決して良くない。アラーニャの両親もシチリアからの移民で、ロベルトはナイトクラブの歌手から身を起こした。アントワーヌは次第にオペラへのめり込み、幕切れのオーディション場面でプッチーニの遺作『トゥーランドット』からのアリア「誰も寝てはならぬ」を歌う。MB14の本職もラッパーであり、イタリア流のベルカント発声でないにもかかわらず、歌心にあふれ、プッチーニの強い音楽を現代に蘇らせて感動を呼ぶ。

10月公開予定のレイン・レトマー監督&ショーン・ケリー音楽監督の香港・アメリカ合作映画『ラ・ボエームニューヨーク愛の歌』はプッチーニが1896年に完成したオペラ『ラ・ボエーム』の音楽をほぼそのまま使い(管弦楽ではなく2台ピアノの伴奏、一部カットあり)コロナ禍の時代、2022年のニューヨークに舞台を移した。

『ラ・ボエームニューヨーク愛の歌』
第3幕コニーアイランドで別れを歌うミミ(ビジョー・チャン=左)と
ロドルフォ(シャン・ズウェン=右)は中国系が演じている
©️2022 More Than Musical

主役のミミ(ビジョー・チャン)とロドルフォ(シャン・ズウェン)は中国人、マルチェッロ(ルイス・アレハンドロ・オロスコ)はメキシコ系アメリカ人、ムゼッタ(ラリサ・マルティネス)はプエルトリコ人、ショナール(マイケル・リード)はアフリカ系アメリカ人、コッリーネ(井上秀則)は日本人と「屋根裏部屋の若者たち」を演じる歌手は全員、白人社会のマイノリティでキャスティング。原作では子供たちにおもちゃを売るパルピニョールは薬物ディーラーで、ドラァグクイーン(女装パフォーマー)のカウンターテナー(アンソニー・ロス・コスタンツォ)が演じる。

第2幕のクリスマスのカフェはチャイナタウンの老舗飲茶レストラン、病身のミミがロドルフォに別れを告げる第3幕は、遊園地が雪に埋もれた冬のコニーアイランドだ。肺を病むミミはマスクを手放せない。

『ラ・ボエームニューヨーク愛の歌』
第2幕チャイナタウンの老舗飲茶レストランでのクリスマス(©️2022 More Than Musical)

アンリ・ミュルジェールの小説『ボヘミアン生活の情景』に想を得たプッチーニのオペラ自体、社会の分断と貧困をとらえ、青春の美しさだけでなく残酷さにも目を向ける。『ラ・ボエーム』の舞台を1830年代のパリ・カルチェラタンから現代のニューヨークに移す試みでは、1996年初演のブロードウェイ・ミュージカル『レント』が先行するが、今回の映画はトップクラスの実力を持つ若手オペラ歌手をそろえ、プッチーニの原曲のまま、ミュージカルに匹敵する現代性と敷居の低さを打ち出した点が面白い。

「製作」にクレジットされている香港のオペラ・プロダクション「モアザンミュージカル」は2016年、ゴールドマン・サックスで日本人女性初のパートナー兼マネージングディレクターを務めた長谷川留美子が「ミュージカルと同じくらい、若い世代の心に触れるオペラ」を目指して設立した。コロナ禍で公演中止が相次ぎ、アジア人差別も横行するなか「あえてアジア人が主人公の『ラ・ボエーム』の映画化を思い立った」という。■