仏力を受け、御後戸にて、

鼓・唱歌をととのへ

 

(世阿弥『風姿花伝』第四神儀)

Aphorists

後戸うしろど」の一語は、長らく『風姿花伝』の注釈者を困らせた謎だった。それが新海誠監督のアニメ『すずめの戸締まり』で、ひょいと現れたのには驚いた。安政の大地震のあと江戸で流行った「鯰絵なまずえ」がヒントだろう。列島のあちこちに開いた地震の「後戸」の戸締まりをして歩く主人公鈴芽と閉じ師草太のロードムービーだった。

世阿弥は猿楽(申楽)の起源を、天の岩戸の前でさかきの枝にしでをつけて舞ったアメノウズメに求めるとともに、遠くインドの祇園精舎で木の枝、ささの葉に幣を飾って踊った外道、提婆達多だいばだったに対抗して、釈迦の弟子たちが後戸で六十六番の物まねを演じた故事に遡る。

金春座でそんな言い伝えがあったらしいが、現に天台系大寺の阿弥陀堂、金堂、常行堂の仏像を飾った内陣の裏側に小さなほこらが隠れていて、舞い踊る神像が祀られている。これが「後戸の神」らしい。その正体は摩多羅神といい、柳田國男の『石神問答』でいう宿神しゅくじんであり、秦河勝はたのかわかつに始まる芸能の祖神と突き止めたのが芸能史研究家の故服部幸雄だった。

都会の屈託を雨上がりの神秘的な映像で晴らす新海監督が「常世とこよ」「産土うぶすな」といった民俗学的概念に頼った分、物語はこれまでより直線的になった。むろん、東日本大震災の喪失の記憶が埋めこまれている。草太は必死に祈禱する。「命がかりそめだとは知っています。死は常に隣にあると分かっています。それでもいま一年、いま一日、いまもう一時だけでも――」

地震の巣の巨大な赤ミミズが出現するバックドアは、東京・御茶ノ水の我がオフィスの真下あたりに口を開けているらしい。草太の祈りをストイカも唱えよう。病床にある「世は歌につれ」の筆者の回復を祈って。(A)

後戸の神と「すずめの戸締まり」
        比叡山西塔常行堂の内陣裏に祀られた「後戸の神」摩多羅神像(山本ひろ子『異神』より)