超人は群衆の奈落に他ならない
(保田與重郎『英雄と詩人』の「ルツインデの反抗と僕のなかの群衆」)
轟音が二発鳴り響き、元総理が凶弾に倒れた。「心肺停止」の報のあと、奇妙な静寂が訪れた。そして8日午後3時36分、側近だった元記者が突然「お亡くなりになった」とフェイスブックに投稿し、これ見よがしに安倍・麻生元総理2人とのスリーショットを載せた。
死亡時刻より1時間半も早く、フライングだったかどうかは(本人は釈明、謝罪と目まぐるしく態度を変えた)、もはやどうでもいい。むしろ政治家の非業の死を、自らの虚栄にすり替えたのがさもしい。法廷で争っていた女性とのレイプ問題で彼の敗訴が確定した日でもあり、このフライングのお騒がせで一人相撲を取って恥の上塗りをした。
元総理がこんな取り巻きをはべらせて、悦に入っていたかと思うと、スリーショットの笑顔が気の毒になる。しかし政治ジャーナリズムは一斉に故人を称賛し、誰もが死を悼む側の尻馬に乗ろうと走りだした。「人の不幸は蜜の味」と五十歩百歩、憲政史上最長だった宰相の死を、群衆がよってたかって汚して切り苛んだとしか思えない。
『英雄と詩人』は昭和11年(1936年)刊で、ナポレオンから透谷、子規、鐵幹らまで、報われぬ孤独な英雄(=超人)を論じた批評集である。その不幸は「悟性はつねに悟性が課した孤独を群衆によって復讐されねばならなかった」ところにある。「超人は群衆の奈落」とは、ドイツ・ローマン派の小説『ルツィンデ』の作者を評した名言である。
放埓が物議を醸した作者フリードリヒ・シュレーゲルは、断章のアフォリズムを得意とした。日本浪曼派の保田も、ルツィンデの反抗を「イロニー」と名付けている。いまのイロニーは、故人との縁を自慢する群衆が跋扈する奈落で、「宗教と政治」の暗部を警察がお目こぼししてきた構図が透けたことだろう。形而下の偶像破壊が始まらないといいが。(A)■