こうきせいじゅうわがことあら

紅旗征戎吾事に非ず

(藤原定家『明月記』治承4年9月)

Aphorists

「世上乱逆追討、耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ」に続くこの一文、19歳の青年歌人が、頼朝の決起で始まった源平の乱など俺の知ったことかと、傲岸なまでに唯美を宣言した――と、大戦時の若き堀田善衛が思ったのは無理もない。

いまは必ずしもそうと解せない。もとは白楽天の律詩「劉十九同宿 時准寇初破」の冒頭だが、定家が70歳になってから日記書きだしの治承4年(1180年)の条に、それを補筆し浄書した形跡がある。だから「紅旗」は本来、平氏の旗ではなく、承久3年(1221年)に鎌倉の執権、北条義時討伐の兵を挙げて惨敗した後鳥羽上皇のことだったのだ。

この「承久の乱」の頃、定家は還暦になっていた。明月記には前後4年の空白があるが、後撰和歌集奥書中には「紅旗征戎非吾事」の句があって、思うほど出世のかなわなかった二流貴族の定家が、口惜し紛れに漢詩でうそぶいている。

白旗は風に翻り霜刃は日に輝く
徴臣の如き者、紅旗征戎は吾が事に非ず
独り私盧に臥して暫く病身を扶く
悲しきかな、火は崐岡こんこうき玉石倶に焚く
残涯を倩思せいしし、ただ老涙を拭ふ

新古今和歌集の勅撰でこの「稀代の戴冠詩人」と深く関わった定家は、院の我がままと遊蕩に翻弄された。猟官が逆鱗に触れ、前年院勘を受けたから、まさに「吾事」だった。戦乱の暴挙に走った院の自業自得、という屈託を晴らすのに昔の日記を改竄し、吾事でも「非吾事」と突っ張っているのは、恐れ入った老いの執念である。

しかしこの俗臭芬々の強がり、捨てたものでもない。「火は崐岡を炎き玉石倶に焚く」ウクライナに、1億総評論家で知ったかぶりを競い、ゼレンスキー演説の画像に拍手喝采、ほんの一握りの難民到着に胸を撫でおろす……所詮は他人事が本音なのに、戦況に一喜一憂して、「吾事」のように振る舞う野次馬たち。恥ずかしや、老残の定家の爪の垢でも煎じて飲め。(A)■

紅旗征戎吾事に非ず
                  作・湊 久仁子