Wie traurig, wie traurig!!!
(何という悲しみ、何という悲しみ!!!)
Ludwig Wittgenstein, Geheime Tagebücher, 6/11/1914
戦争が始まった。25歳のヴィトゲンシュタインは、第1次世界大戦が勃発するや、オーストリア・ハンガリー二重帝国の志願兵となり、対ロシアの東部戦線に派遣された。当時はロシア領だったポーランドのガリツィアに攻めこんだが、すれ違いで当時オーストリア領だった現在のウクライナ西部にロシア軍が進出してきて、リヴィウ(レンベルク)を奪われた。
戦況が一変、ハプスブルク家のオーストリアは以後負け戦となる。ヴィスラ川に浮かぶ艦船にいたヴィトゲンシュタインは、クラクフへ退却する船中で、戦場で精神を病んだ詩人から連絡を受けた。クラクフの陸軍病院に入院していたゲオルク・トラークルで、「数日中に退院するのでお会いしたい」という。野卑な兵士たちのなかで孤立していたヴィトゲンシュタインは「少しでも親しく話せる人とぜひ会いたい」と胸を躍らせた。
が、クラクフに着いた彼を待っていたのは、2日前にトラークルが大量のコカインを飲んで自殺したという訃報だった。詩人はすでにこう歌っていた。
おお、人間の腐敗した姿――冷たい金属で組みあわされた、
沈鬱な森の夜と恐怖、
また、獣の焼けつくような野生。
魂の夕凪。(『死の七つの歌』吉村博次 訳)
何という悲しみ!同じ無言の嗚咽が、いままたこの地帯に広がっている。首都キエフなどウクライナ各都市から、厖大な難民の群れが西方国境をめざすのだろうか。希望のない退却戦でヴィトゲンシュタインが何とか自殺の誘惑に耐えられたのは、世界の論理構造を突き詰める「写像」というヒントだった。トラークルの死の1カ月前に思いつき、死の恐怖が瀰漫する荒廃のなかで温め、アフォリズム形式の命題を一つ一つ書き綴った。
20世紀哲学の金字塔『論理哲学論考』は、戦地で手帳に書かれたのだ。終戦時捕虜だった彼から、英国人の師バートランド・ラッセルに届けられた原稿は、1921年に日の目を見る。「言語というものの限界(私が唯一理解する言語)が私の世界の限界を意味する」(『論理哲学論考』命題5.62)。戦場をとぼとぼ歩き、いったんは哲学を捨てた敗軍の兵の苦悩の限界、そこに世界があった。国境など無意味と信じよう。(A)■