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最後からの二番目の真実

ネット愛国主義の胚3――「衆人環視」の空間はだませない

政治漫画は残酷だ。変幻自在の言葉が武器の政治家と違って、漫画家は絵の描線しかないから、偏見など精神の歪みがむきだしになる。05年12月6日、朝鮮日報に載っていた漫画がそのいい例である。こめられた悪意は今や繕いようがない。

絵解きをしよう。黄禹錫(ファン・ウソク)教授によるヒト・クローン胚性幹細胞(ES細胞)の捏造疑惑を追及したテレビ局MBCが世間の指弾を浴び、黄教授支持派が「国益のため」に始めた1000人の女性から卵子寄贈を募る運動に、取材していた外国メディアのクルーが感動するという図である。つけたキャプションが「大韓民国の力」。国境を越えて単に一ジャーナリストの立場で見た場合でも、やんぬるかな、と天を仰ぎたくなる。

「風刺」を隠れミノにして、確たる検証もなくナショナリズムの“世論”に迎合しているうえ、外国メディアの権威を盾に国内のライバルメディアを貶めるという最悪の手法だからだ。こういうタッチは大政翼賛会時代の日本、スターリニズム時代のソ連や東欧圏にいくらも事例があった。ナチスの反ユダヤ宣伝紙「突撃者」(Der Stürmer)の扇情的な漫画ともよく似ている。

黄教授疑惑で韓国の新聞は終始後手にまわった。英ネイチャー誌の1年半前の“告発”にも黄教授をかばってきたし、この漫画が掲載された日まで紙面は内外の“嫉妬”に苦しむ黄教授像を演出しようとしていた。が、風向きが変わる。黄疑惑に動かぬ証拠をつきつけ、流れを反転させたのは、ネット発の決定的情報だったのだ。

先に「ネイバー、ダウム、ヤフーなど(韓国の)ポータルサイトに民族の英雄を傷つけるなという書き込みが相次いだ」と書いたが、ネット空間は必ずしも偏狭なナショナリスト大衆にだけ占拠されているわけではない。そこは「衆人環視」の空間であり、専門家も一角に加わっている。研究成果がひとたびネットで公開されたら、彼らはだませないのだ。幹細胞のように、ネットは敵にも味方にもなる「万能空間」なのだ。

この「衆人環視」を甘く見てはいけない。彼ら研究者たちは、米サイエンス誌に掲載された黄教授チームの2005年論文を仔細に検証し、添付された幹細胞の写真やDNA指紋のデータに、見過ごしがたい捏造の跡があるのを発見、韓国科学財団の生物学研究情報センター(BRIC)のネット掲示板に匿名で告発した。耐震設計データ偽造を見抜けなかったイーホームズのようにザルだった米科学誌の査閲制度の穴も、専門知識を欠いた記者が調査報道もせず迎合紙面でナショナリズムを煽るだけという商業ジャーナリズムの穴も、「衆人環視」によって埋められたことは救いといえよう。

論文のどこが異常だったかは、北海道大学大学院生(化学専攻)のブログサイト「幻影随想」が日本語で手際よくまとめている(12月10日11日エントリー)から、そちらをご参照ください。要するに別の細胞の写真のはずなのに、同じ写真を焼き増して角度を変えたりトーンを変えて使いまわしているのだ。DNA指紋でも、体細胞とそこからつくったES細胞のDNAは本来同一になるとはいえ、鑑定は手作業で試料の量なども微妙に違うためノイズや波形が微妙に違ってくるはずだ。なのにサンプルは異常なほど一致していた。これは体細胞のDNAを、幹細胞のDNAと偽っているとの疑惑を強める。

この発見は韓国科学技術者連合のサイト(http://scieng.net)を経て瞬く間に広がった。ソウル大学の若手教授たちも、 鄭雲燦 (チョン・ウンチャン)総長に「幹細胞のDNA指紋データのうち、相当数に疑問を抱かざるを得ない」とする文書を提出した。ソウル大学はついに調査委員会を設け、2005年論文で黄教授が誇示した幹細胞自体が「一つも実在しない」という結論に達したのだ。1月10日には大学調査委の最終結論が出て、最後の鉄槌がふりおろされる予定だが、2005年12月30日付の朝鮮日報はなお残る5つの疑惑を挙げている。

(1) サイエンス誌2004年論文では、受精卵の胚か初期段階の幹細胞を抽出する「ソフト・スキーズ」法などの源泉技術を確立したとしているが、これも存在しないのか
(2) 2004年論文の成果もデータを捏造したものなのか
(3) 2005年論文でデータ捏造を隠すため、誰が幹細胞をすりかえたのか
(4) 黄教授は、共同研究先の米ピッツバーグ大学にいる韓国人2研究員とその父に4万ドルを渡していたが、2研究員とも捏造に加担、その口止め料だったのか
(5) そのカネを出したのが情報機関の国家情報院だったと報じられ(国家情報院は「黄教授に頼まれただけ」と釈明)たが、国家関与の有無は

(4)と(5)は多少説明を要する。テレビ局MBCの時事番組「PD手帳」の取材班に対し、ピッツバーグ大学にいる研究員は「黄教授の指示で幹細胞2株を11株にふやす写真を撮った」と捏造を認める発言をした。研究員は11月半ばに自殺未遂を犯し、黄研究班のソウル大学の安圭里(アン・ギュリ)教授と漢陽大学の尹賢洙(ユン・ヒョンス)教授が急遽ピッツバーグに飛んだ。2教授は12月初めにも再度訪米、この研究員にカネを渡したのだ。一連の流れからみると「口止め料」と見える。

この会合の2日後、研究員はMBCに対し「脅迫取材で事実と違うことを口走った」と証言を180度覆してしまう。MBCは番組の放映を中止する。ところが、研究員へのカネの受け渡しに「国民的英雄」だった黄教授身辺の護衛役をつとめる国家情報院職員が関わったことが暴露された。当初否定していた国家情報院も、ほどなく「組織ぐるみではない」としながらも「黄教授に頼まれてカネを渡した」と認めたのだ。

盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は1月2日、内閣改造に踏み切り、対北朝鮮政策の責任者である統一相など4閣僚を自身の側近で固めた。黄疑惑で追い詰められた呉明(オ・ミョン)科学技術部長官はトカゲの尻尾切りのように更迭され、副首相兼科学技術部長官として、人権派の学者で青瓦台(大統領府)秘書室長だった金雨植(キム・ウシク)をあてた。国家ぐるみの揉み消し工作追及に備え、背水の陣を固めたかたちである。

問題はこの「国家ぐるみ」なのだ。

ネット愛国主義の胚2――最後から二番目の真実

幻のヒト・クローン胚性幹細胞(ES細胞)のつづきを書く前に、このブログに「最後から二番目の真実」というタイトルをつけた理由を説明しておこう。12月で終えた新潮社月刊誌「フォーサイト」の連載コラムを、このサイトで継承したつもりである。

penultimateとは「究極(ultimate)の手前」というほどの意味で、ちょっと気に入った単語なので捨てるに忍びなかった。タネを明かせば、つれづれに翻訳したことのあるSF作家P・K・ディックが、あまりできのよくない作品のタイトルにつかったのを拝借したのだ。地上では2大国の核戦争が続き、放射能汚染を避けて人類は地下都市で耐乏生活するというSFによくある設定だった。都市は少数の支配層が全権を握り、彼らがテレビを通じて流す地上の凄惨な戦争の映像によって、大衆は忍従するほかなくなっている。

だが、それはすべて「最後から二番目の真実」ではないのか、地上の核戦争はとうに終わっているのに、支配の永続のために瓦礫の戦場のシーンをでっちあげているのではないか――そう疑う人間が出てきて、目で確かめようとダクトにもぐりこみ、ロボットの追跡をかわして地上をめざす筋書きだ。ディックのSFは、「ブレードランナー」「マイノリティ・リポート」などいくつも映画化されたから、見た人はあの暗い雰囲気を思い出すだろう。

最近の映画でその設定をパクったのは、ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンが演じた「アイランド」だろう。監督は駄作「パールハーバー」を撮ったマイケル・ベイだからそう期待していなかったが、才女ソフィア・コッポラが荒涼たる東京を舞台に撮った「ロスト・イン・トランスレーション」の北欧系美人ヨハンソンのなまめかしい唇は一見の価値があるので、DVDで鑑賞してみた。

「アイランド」も地下都市が舞台である。そのセットは007シリーズの地下秘密基地みたいで陳腐だし、映画そのものはありきたりのアイデンティティー・クライシスと派手なアクション映画仕立てだが、思わぬ収穫があった。今回の胚性幹細胞に潜む深刻なジレンマを、ハリウッドが巧みに映像化してみせていたからである。

そのジレンマとは――いや、その前に胚性幹細胞の初歩的な説明をしておこう。普通の生物の細胞は一定の用途に限定され、神経細胞は分裂増殖しても神経細胞以外の細胞にならない。しかし分裂増殖で別の細胞になることができる特殊な「万能細胞」があって、これを幹細胞という。一個の受精卵から分裂増殖によって身体のさまざま細胞ができ、それが内臓や骨、皮膚などを構成するのがその好例である。この受精卵の胚から取り出す幹細胞が、今回問題になった胚性幹細胞(Embryonic Stem Cell)なのだ。幹細胞はほかに骨髄、胎盤、血液(臍帯血)、毛根、脳などにも分布している。

「万能細胞」は失われた臓器の再生を可能にするため、現在の医療技術では治癒不能とみられるアルツハイマーや脊椎損傷などの患者にとって朗報である。しかし、授精した卵子をその瞬間から一個の生命体(赤ちゃん)とみなせば、そこから胚を抽出する行為は「水子」を切り刻む“殺人”行為にひとしくなる。映画「アイランド」は、この受精卵を「水子」でなく成人クローンに置き換えて、幹細胞抽出のおぞましさを描いたのだ。

だが、そこには米欧社会が意識的無意識的に押しつけるキリスト教倫理がむきだしになってくる。分裂増殖をはじめたばかりの受精卵を一つのホムンクルス(小人の精)とみて、抽出を一種の殺人と指弾するのだ。ソウル大学の黄禹錫(ファン・ウソク) 教授が成功したというヒト・クローン胚性幹細胞に最初に倫理的な疑問を投げかけた英科学誌「ネイチャー」429号(2004年5月6日)の記事(デヴィッド・サイラノスキー記者)と同じ号の社説を読んでみればいい。

ネイチャーは科学誌の最高峰であり、日本では明治時代に南方熊楠が日本人として初めて寄稿した権威ある雑誌だが、サイラノフスキー記者の取材は調査報道だったのだ。韓国ではテレビ局MBCの調査報道が世論を震撼させ、一時は袋だたきにあったが、実はこのネイチャー誌スクープの1年半後のトレース(後追い)取材にすぎなかったといえる。

ネイチャー誌が目をとめたのは、黄チームが実験にあたって16人の女性から242個の卵子を得ていたことだった。ホルモン注射によって卵巣に過剰排卵させ、1月経周期に1人で12~20個もの卵子を得て効率を高めていたのである。ネイチャー誌はこう書く。



他の研究者たちは驚く。これほど多数の女性が、研究プロジェクトのためにこうした処置を施される気になったとは、と。こうした処置の副作用は、一般的な不快感や心的ストレスから血栓や梗塞まで及びうる。『これは苦痛の伴う処置で、リスクが含まれている』とミシガン大学でクローニングを研究している論文の共同執筆者ホセ・チベリは語る。『アメリカでやろうとしても無理だろう』



黄教授は、卵子提供女性は医学の将来性のある分野を前進させたいと望んでおり、協力は自発的だったと主張していた。しかしネイチャー誌は、匿名の提供女性のひとり、「ヤ・ミンクー」を突き止める。最初のインタビューで、彼女は卵子を提供した病院の名を挙げ、すでに2人の子持ちなので、卵子を喜んで提供したと語った。ところが、あとで電話し直してきて、提供を否定し、英語が理解できなかったせいだと証言を覆した。

ネイチャー誌の追及はここで止めている。「ヤ・ミンクー」に何らかの圧力がかかったことをにおわせながら、その先を書かないという「最後から二番目の真実」戦術だ。もちろん、黄教授は当初疑惑を否定した。だが、韓国には不法卵子売買が存在する。2005年11月14日にも、ソウル警察瑞草署が02年12月から04年末にかけて計395人に卵子売買をあっ旋し、67億ウォン(約7億円)を稼いだ男を逮捕した事件が報じられた。

西欧には許しがたい「生命倫理の弛緩」と見え、韓国では「儒教道徳のエアポケット」として違和を覚えない、というこのカルチャー・ギャップ。黄教授の論文捏造を暴くモチーフの底には、明らかにこの「文明の衝突」があったと思える。韓国のネット世論が激高したのは、暗黙のうちに倫理的「後進国」という烙印を捺されていたからだ。

ネット愛国主義の胚1――勘違いした「トムとジェリー」

記憶にずっと残っていたが、どこで知ったのか、どうしても思い出せない小話がある。



ある保健指導員が今週報告したところによると、小さなネズミが、たぶんテレビを見ていたのだろうが、いきなり小さな女の子とペットの大きなネコに襲いかかったという。女の子もネコも生命に別状はなかったが、このできごとは何かが変わりつつあるらしいことを思い起こすものとしてここに記しておく。



「あ、そいつはね……」とモノ知りが言う。「マクルーハンさ」。メディアはメッセージ、という名言を残し、「グーテンベルクの銀河系」など逆説のきいたベストセラーを次々と送りだして1960~70年代に一世を風靡したカナダのメディア学者である。

ちょっと滑稽で不気味なこの逸話、調べたら彼の著作にあった。「メディア論人間の拡張の諸相」(Understanding Media : The Extensions of Man, 1964)の書き出しだ。でも、マクルーハンもよそから引用していて、ほんとうの筆者はニューヨーク・タイムズ紙の名物政治記者ジェームズ・レストン。記事は1957年7月7日に載っている。

このネズミが見ていたのはきっと、アニメ「トムとジェリー」に違いない。あの永遠の鬼ごっこ喜劇はいつ見てもあきないが、あれを見てネズミが現実と混同し、窮鼠(きゅうそ)でもないのに「ネコを噛んだ」とすれば、背筋が寒くなる。しかし、逆上したネズミは一種の比喩だろう。「人間の拡張」をもたらす新しいテクノロジーを伴うとき、メディアはヒトを変える(あるいは逆上させる)――と言いたいのだ。

ソウル大学の黄禹錫(ファン・ウソク、Hwan Woo-suk )教授のヒト胚性幹細胞(ES細胞)に関する論文データ捏造疑惑は、ある面で「ネコを噛んだネズミ」を思わせる。

疑惑を調べたソウル大調査委員会は、黄教授がクローン技術を使ってヒトの皮膚細胞から11株のES細胞をつくったという、米サイエンス誌(05年5月電子版)論文は「でっちあげ」と結論づけた。11株のうち9株は実在せず、残る2株もDNA鑑定すると、もとになった皮膚細胞と一致しなかった。きのうまでの韓国の国民的英雄が、一転してサギ師の烙印を捺されるという劇的な結末を迎えたのである。

その過程で起きた悲喜劇で目を引いたのは、韓国のテレビ局MBCの調査報道である。黄教授転落の引き金は、科学誌の権威ネイチャー誌が指摘した「研究員による卵子提供疑惑」だが、MBCの時事番組「PD手帳」はその検証を05年11月22日に放映した。3カ月かけた丹念な取材で、よくやったと褒めていいスクープである。

取材班は研究員以外の卵子提供者たちと接触し、卵子を売った動機がクレジッドカード借金の返済や、自宅競売回避のため、または小遣い稼ぎだったとの証言を得ているし、卵子を購入した盧聖一(ノ・ソンイル)ミズメディー病院理事長にもインタビューし、「倫理上問題があるとの認識はあったが、国益のために敢行した」と白状させた。報道の要件を満たしているかどうかで言えば、完璧と言っていい。

ところが、ネイバー、ダウム、ヤフーなどのポータルサイトでは、民族の英雄を傷つける蛮行と非難する書き込みが相次いだ。MBC取材チームが「黄教授に引導を渡しにきた」「あなたたちに傷をつけたくはないから……」と言って研究員たちに近づいたことを「取材暴力」と指弾したのだ。ここに浮かび上がるのは「ネット対テレビ」という構図――日本では資本の戦場でライブドアや楽天というネット資本がフジ、TBSの民放勢を飲みこもうとしたが、韓国ではナショナリズムという観念の戦場で激突したのだ。

黄禹錫教授ファンクラブカフェを名乗る同好会が「アイラブ黄禹錫」というサイトを開き、MBCに謝罪を求め、デモやスポンサーに対する抗議電話や不買運動を煽った。「PD手帳」のスポンサーは降板を表明したが、MBCは負けじとニュース番組でもこの問題を報道、「ニュースまで黄禹錫叩きか」「腹が立ってテレビを見れない」などの批判コメントが殺到したという(朝鮮日報)。中央日報はじめ新聞も反MBCのネット世論に引きずられたし、MBCも一時ぐらついた。

黄疑惑は地雷になったのだ。02年大統領選挙ではネット世論のバックアップを受けた盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は「(追及は)このへんで終わりにしよう」と幕引きを図ったが、「韓国の生命工学界を見殺しにしておいて今更やめろとは」、「マスコミの暴力を水に流そうなどとはあきれる」、「国益の問題に目をつぶるな」といった抗議が殺到した。あげくに、黄教授に卵子を提供する女性が200人以上も現れるなど狂騒曲の様相となる。

それがソウル大調査委の結論で「壮大なゼロ」と化した。インターネットという新テクノロジーに舞い上がった「ジェリー」は、漫画そっくりに「トム」をいたぶってきたが、現実はそう甘くない。うぬぼれ鏡のように見たい現実しか見ないことが破局を招いた。それはネット世論の本質というより、高度大衆社会の本質なのかもしれない。

そこで安易に形成されるファクタ(事実)なき神話がメディアの致命傷となることは、中央日報の12月30日号に掲載された「<2005年を反省します>真実知らぬまま『黄禹錫神話』作り」と題する謝罪文がよく表している。問題記事を関連記事として列挙しているが、日本の新聞に身を置いた身として言えば、これは無残としか言いようがない。

他山の石だろう。ネット掲示板でばっこする日本の反韓派は、それみたことかと鬼の首をとったようなはしゃぎぶりで、歴史歪曲問題を持ち出す。しかし、それもまたナショナリズムに毒された勘違いの「ジェリー」でしかない。では、黄禹錫問題とは何だったのか。

素人の憶測はもういい。管見するかぎり、日本で冷静にことの本質を見抜いて書いたと思えるのは、日本医科大学(生殖発達病態学)講師の澤倫太郎氏の力作「国家主導の生命工学がもたらした悲劇-バイオ・コリア国家プロジェクトのひとつの帰結」上下だろう。彼は私の知りあいで、同じサイトに私も寄稿しているが、いい論文だった。一読をお奨めする。

あすはお休み。

彼方のタルコフスキー1――「ノスタルジア」で朗読した詩

あけましておめでとうございます。お正月ですから、のんびりしたブログにしましょう。

大晦日、手抜きの大掃除をしていて、ふと手がとまった。13年前の取材ノートが出てきたのだ。日経新聞土曜版の「美の回廊」の取材で、93年1月、モスクワとボルガ川中流の町ユリエベツに行ったときのものである。目頭が熱くなるほど懐かしい。

生まれてはじめて零下30度という極寒を経験し、チェーホフが「シベリアの旅」で描いた「はてしない」白樺の密林の一端、「ダイヤモンド・ミスト」の煌めくロシアの青天を眼前にしただけに、忘れがたい旅だった。

映画「惑星ソラリス」「僕の村は戦場だった」「サクリファイス」などの傑作を世に送りだしながら、ソ連芸術官僚にいびられて晩年は亡命を余儀なくされ、異国の地で客死したロシア人監督の足跡を追う取材だった。欧州を横断して果敢に取材したが、ノートのほんの一部しか使えず、未練が残ったのでこうして保存したのだろう。記事の冒頭はこう始まる。



ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーの作品は、いつも暗い水がゆらめいている。その原像をたどって、冬の旅をした。

タルコフスキーの映像は、いつも魂の廃墟を映しだす。どこからともなく伝わる水音。滴は霧や雨や雪となり、藻をそよがせ、壁を濡らし、耳を聾(ろう)する滝となって……内なる故郷から、ひたひたと水はあふれてくる。



しばしノスタルジーに浸った。当時のロシアはすでに91年8月の保守派クーデター失敗でゴルバチョフ大統領が失脚、エリツィン時代に移行していた。それでも残るソ連時代の抑圧の呪縛と、不振に喘ぐ経済の暗い影が、この行文には揺曳している。

ノートに数枚のFAXの感熱紙がはさんであった。幸い、まだ字が読める。タルコフスキー監督の父、アルセーニ・タルコフスキーの詩である。父母は離婚したが、監督はこの父を尊敬していたらしい。自伝的な映画「鏡」や、望郷の思いやみがたい「ノスタルジア」では、父の詩を映画のなかで朗読させている。

映画では断片しか分からないから、詩の全体が知りたかった。監督の旧友からその詩集(フランス語の対訳つき)を寄贈され、知人のロシア文学研究家に試訳してもらった。ファクスで送られてきたその訳詩は、結局記事のなかで使えなかった。もったいないのでここに再録する。いい詩である。まずは「ノスタルジア」で朗読した詩――。


子供のころ、ぼくは病気になった
飢えと恐怖で
唇の皮を剥いてひと舐めすると
ひんやりと塩っぱい味がした
ぼくはずっと歩いていく、ずっと、ずっと歩いていく
表階段に腰をおろして
暖まる
ひとり浮かされたように歩いていく、まるで
鼠捕り人の笛の音につられて川に入っていくよう
階段に座って――暖まる
なんだか寒気がする
母が立って、手招きしている
すぐそこにいるようにみえて近づけない
そばまで行けそうだ――ほんの7歩のところに立って
手招きしている、ぼくは近づいていく――
母は立っている
7歩のところに、手招きしている
暑い
ぼくは襟を開いて、横になった――
その時ラッパが鳴りだした
日の光が瞼にさし、馬たちが駆けていった
母は舗道の上を飛んでいく
手招きして――
そして飛んでいってしまった……
今ぼくは夢に見る
林檎の木の下の白い病院
喉に巻かれた白いタオル
白衣の医者がぼくを見つめる

白衣の看護婦が(ベッドの)足元に立って
翼をふるわせているみんなそのままだった
母がやってきて、手招きした――
そして飛んでいってしまった……


この訳詩を読んで興味をお持ちの方は、このHPのお問い合わせフォームにお名前、ご住所、FAX番号などを書き込んでください。原文(Arséni Tarkovski, Poèms, Editions Radouga, Moscou, 1991)の掲載ページのコピーをFAXで(キリル文字のフォントを入れていないのでファイル送信は無理)送ります。