世は歌につれ
裕次郎、鏡に映るわが顔に乾杯 世は歌につれ
                     NHKアーカイブ「あの人に会いたい」石原裕次郎編より

第28回

裕次郎、鏡に映るわが顔に乾杯

亡くなる半年ほど前、石原裕次郎は弟分の渡哲也にこう言った。「哲よ、人の幸せって何かな。もし仮に自分の命があと5年あるとしてそれが2年になってもいいから酒を飲みたい。それが幸せってもんじゃないのかな」(「週刊朝日」の渡インタビュー)。

裕次郎は死期の近いのを察知していた。昭和の巨大な星が消えようとしている。ハワイ・ホノルルの海辺の別荘で療養生活を送る裕次郎。本国日本ではだれも口には出さずに、「その日」を前に関係者たちが慌ただしく動いていた。作曲家弦哲也は焦っていた。何曲か裕次郎の歌を作曲しているが、納得できるような作品ではなかった。裕次郎のための曲を残したい、それには裕次郎が育った北海道を舞台にした歌だ、と考えた弦は北海道を旅して、釧路、函館、小樽を舞台にした「北の旅人」という題名の曲を書きたいと思いついた。「たどりついたら岬のはずれ…」と歌い出しの言葉を決めた。そしてそれを作詞家の山口洋子のところへ持ち込んで「この先を書いてほしい」と渡した。

私がテレビ東京の報道番組のキャスターをしていたとき、番組に弦哲也を招き、「北の旅人」を弾き語りしてもらった。簡単なリハーサルが終わり、本番まで数分というところでギターを抱えたまま、彼は私を呼んだ。「1番を歌って。キーは?」「はい。森進一のキーです」。そのやりとりだけで私は生放送で歌ってしまった。そのあと食事をしながら、「北の旅人」が出来上がるまでの話を聞いた。

ハワイのドルフィンスタジオ、1987年(昭和62年)2月14日。出来上がった曲をレコード会社のディレクターが2度ほど歌う。それを聴いて裕次郎は2回歌う。3回目はもうレコーディングに入る。体力は落ち、当然声にも張りがない。出来上がった歌をCDで聴くといつもの裕次郎に仕上がっている。

北の旅人詞・山口洋子曲・弦哲也

 

たどりついたら岬のはずれ

赤い灯がぽつりとひとつ

いまでもあなたを待ってると

いとしいおまえの呼ぶ声が

俺の背中で潮風かぜになる

夜の釧路は雨になるだろう

ふるい酒場で噂をきいた

窓のむこうは木枯まじり

半年まえまで居たという

泣きぐせ酒ぐせ泪ぐせ

どこへったか細い影

夜の函館霧がつらすぎる

空でちぎれるあの汽笛さえ

泣いて別れるさい果て港

いちどはこの手に抱きしめて

泣かせてやりたい思いきり

消えぬ面影たずねびと

夜の小樽は雪が肩に舞う

ハワイでこのときなんと「北の旅人」を含めて4曲もレコーディングしているのである。鬼気迫るような光景であっただろう。残る3曲は同じ山口・弦コンビの作品「想い出はアカシア」となかにし礼作詞、加藤登紀子作曲の「わが人生に悔いなし」「俺の人生」である。いずれも名曲だが、裕次郎死去のあと世に出た曲ということで、いつ聴いても悲しい。

私の個人的な好みを言えば「想い出はアカシア」がとてもいい。私より10歳年長の裕次郎は有名なスターとかいうような存在ではなく、夜空にひときわ目立つ金星か、冬の荒れた海に凛として立つ灯台のようなものだった。たしか大学受験のころ、「赤いハンカチ」という映画を見た。その主題歌は「アカシヤの花の下であのがそっと瞼をふいた赤いハンカチよ」(詞・萩原四朗曲・上原賢六)で始まる。「アカシア」でなく「アカシヤ」なのは時代を感じさせるが、知らない人はまずいないぐらいの有名な歌だった。青春時代にこの歌を聴いた私の世代は、「想い出はアカシア」を聴いてわが身の来し方を想う。

想い出はアカシア詞・山口洋子曲・弦哲也

 

きれいになったねあのころよりも

幸せなんだろあいつとふたり

めぐり逢えたら人妻の

銀の指輪が痛かった

想い出はアカシア

別れの白い花

「わが人生に悔いなし」を書いた作詞家であり作家のなかにし礼は、裕次郎を恩人だと語る。1963年(昭和38年)、なかにし25歳の新婚旅行。泊まった伊豆の下田東急ホテルに映画「太平洋ひとりっぽっち」の撮影で石原裕次郎チームが滞在していた。たくさんいる新婚カップルの品定めをしているうちになかにし礼カップルに目がとまり、裕次郎が手招きして「ビールぐらい飲めよ」とついでくれたという。「君は何をして食べてるの?」「フランス語の翻訳とシャンソンの詩を書いていくばくかの収入を得てます」「シャンソン?つまらないな。歌謡曲の詞を書けよ。いいのが出来たら俺のところへ持ってきなよ」。なかにしは真に受けて書いた。「涙と雨にぬれて」(曲・なかにし礼編曲・川口真歌・和田弘とマヒナスターズ)。歌謡曲の作詞家として巨匠と呼ばれるまでになったなかにし礼の作詞家への道を開いてくれたのは裕次郎だったのである。その裕次郎の人生最後の歌をなかにしは書いた。自分の人生も重ねながら書いた。おそらくは号泣しながらの作詞だっただろう。

わが人生に悔いなし詞・なかにし礼曲・加藤登紀子

 

鏡に映るわが顔に

グラスをあげて乾杯を

たった一つの星をたよりに

はるばる遠くへ来たもんだ

長かろうと短かろうと

わが人生に悔いはない

なかにしは生前こう述懐している。電話で裕次郎からホテルに呼び出されてこう言われた。「俺、人生の歌が歌いたいんだけど、書いてくんないかな」「裕さんのような人生の成功者が自分の人生を得々として歌うのは、一歩間違うと鼻持ちならないものになる危険がある。裕次郎を太陽として仰ぎ見つつ頑張って生きた同世代の男たちの人生を肯定するような歌なら書けそうだけど」「そうだよ。それでいいんだよ」(石原慎太郎著『弟』のなかにし礼の解説)

なかにしは大スターではなく普通の男の人生を書きたかった。だから作曲は裕次郎の曲を書いたことの無い人というので加藤登紀子に依頼した。「俺は歌手じゃない。だから歌には注文をつけない」と言い続けていた裕次郎が、意欲を示したのはこの歌だけである。いろいろな歌手が人生を振り返る歌を歌っているが、この歌ほど心揺さぶられる歌はない。亡くなる5カ月前にレコーディングし、亡くなった後で世に出たのである。渡哲也は台所の食器棚のガラスに映る自分の顔に乾杯する裕次郎を見たことがあるという。そのシーンが1番の詞になった。

今回、裕次郎の歌を100曲は聴いた。どこにも力が入らず、やさしくささやくような歌い方。「俺はカラオケでは歌わない。だってテンポがずれるから」。若い頃の裕次郎の歌をうまいな、と思って聴いたことはなかった。長ずるにつれたくさんの歌手の歌を聴いて来て、こんな歌い方をする歌手はいないということに気づく。「どうして(NHKの)紅白歌合戦に出ないのか」という問いに裕次郎はこう答えている。「大晦日にソバも食べずに働くバカがいるか。毎年8月くらいに偉い人が、ことしもだめですね、と確認に来る。だめだよ」。「700曲ぐらい自分の歌があるけどレコーディングのあとは歌わないから覚えていない。ブランデーグラスなんかみなさんいまだに歌ってくれるけどどんな歌だったか記憶にない」(石原裕次郎著『人生の意味』からの抜粋)。

若い頃、毎日のように口ずさんでいた裕次郎の歌がある。ほぼ60年前である。裕次郎は生きていれば2022年の年末に88歳の米寿である。当然のことながら私も老境に入る身となった。

残雪詞・渋谷郁夫曲・久慈ひろし

 

月影に残雪冴えて山は静かに眠る

山小屋のひそけき窓に夢は流がるる

雪に埋もれし花か

遠き初恋のひと

思い出の榾火ほだびは燃えて

胸に迫りくる

「兄貴がいなければ俺はいない」とまで慕い、「双頭の鷲」(なかにし礼)のようだった兄石原慎太郎も亡くなった。駆け出しの新聞記者時代、石原慎太郎担当だったことがある。細かな表情に裕次郎を感じて、取材するのがとても楽しかった。北海道へ行くたびに訪れていた石原裕次郎記念館も閉じてかなりの時間が過ぎた。歌謡曲ファンの一人としてほとんどの歌手を生で聴いているが、裕次郎だけは聴けずに終わった。一番会ってみたい「男」であった。■

 

Editor at Largeからひとこと

「52歳のジンクス」というのだろうか。裕次郎も52歳、美空ひばりも52歳で人生を閉じ、それから「神話」に変じた。夭折ではないが、残されたファンにとっては未練の残る年齢である。彼が亡くなったのは1987年7月17日、じきにブラックマンデーが起き、波乱の昭和が終わり、バブルが最後の花を咲かせた。

生前は大スターかつ大歌手すぎて、放ってても売れる果報者くらいにしか見ていなかった。正直、日活スター時代の裕次郎の映画にあまり惹かれたことがなく、慶応大学の「お坊ちゃん」俳優が、芥川賞を取った兄の推しで、スターダムを駆け上がるのが釈然としなかった。何が苦手かといえば、太陽族と湘南、つまり『狂った果実』の世界である。

映画は逗子海岸から始まるが、逗子では幼時溺れかけたことがある。父の会社の海の家があって、毎年連れられて行ったが、海が怖かった。よしず張りの小屋の裏でシャワーを浴び、砂だらけの閑散とした浜辺を駆けて、波打ち際で戯れた。

寂しい曇天の湘南を知るだけに、裕次郎と津川雅彦の演じる兄弟がヨットとボートで対峙する場面が空々しい。お坊ちゃんたちが不良ぶっているとしか思えず、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンの鬱屈と陽光には到底及ばない。

以来、裕次郎の映画とおさらばした。鳴り物入りの大作も、テレビシリーズもすべてチャチに見えた。が、亡くなってみると、にわかに身近に感じた。晩年の本人をみれば、顔がむくんで肌の浅黒い「昭和のオッサン」だった。

カラオケで始終聴いたその歌は、淡々としてどこにも気負いがなく、いかにも昭和の歌らしい。平成、令和と年号が変遷し、もうあんな時代は二度と来るまいと思うと、レトロな昭和がいとおしい。だが、造られた「神」はいつか忘れられる。小樽の裕次郎記念館は閉鎖され、石原プロは解散、兄慎太郎も世を去った。

ああ、昭和は遠くなりにけり。何の屈託もないあの歌だけは、「神話」が消えても名残が惜しい。(A)

 

   

JASRAC許諾番号9027371001Y38029