世は歌につれ
「ウヘッフォムフフィテ」の応援歌 世は歌につれ
43歳で散った坂本九の「上を向いて歩こう」は、いつしか人生の応援歌になった(YouTubeより)

第24回

「ウヘッフォムフフィテ」の応援歌

昔、NHKの「夢であいましょう」というバラエティ番組をよく見ていた。そこに坂本九というニキビ顔の不思議な若い歌手が出ていた。歌がそれほどうまいという感じはしなかったが、いつも素敵な笑顔でこういう友達がいたらいいな、と思った記憶がある。

その坂本九が「上を向いて歩こう」というそれまでの日本の歌になかったような歌を歌い、それが「スキヤキ」という英語の曲名がついて世界中でヒットした。どういう計算をしたのか分からないが、何でもレコードは1500万枚売れたと言われている。なぜこれほど大ヒットしたのか、さまざまな憶測は成り立つが、ほんとのところはよく分からない。その坂本九が1985年8月12日の日本航空123便の墜落事故で亡くなる。まだ43歳だった。令和のいま生きていれば80歳である。

坂本九を語るときには作曲家中村八大、作詞の永六輔、そして坂本九の689トリオの存在を無視するわけにはいかない。

1961年7月21日、東京・大手町の産経ホールで人気ジャズ・ピアニストであり「黒い花びら」で作曲家としても注目される中村八大の第3回リサイタルが開かれた。第一部は八大のピアノ演奏、二部は八大作曲の歌を江利チエミ、加山雄三、水原弘、森山加代子らが歌う。その中に19歳の坂本九がいた。歌うのは当日出来上がったばかりの「上を向いて歩こう」である。その日のことについて永六輔が『坂本九ものがたり』で書いている。

「初めまして、坂本九と申します。これから『上を向いて歩こう』を歌わせていただきます」

これが初対面だった。そして九は舞台へ。六輔はその歌を聞いて耳を疑った。「ウォウォウォウォ」とは何だろう。九の声も緊張して上ずっていた。六輔の耳には……。「ウヘッフォムフフィテアハルコフホフホフ」なんだこの歌は!「ナハミヒダハガハコッポレッへェナハイヨフホフホフニ」。六輔は九がふざけているとしか思えなかったが、舞台の袖からみていると、九は前傾姿勢の直立不動、しかも足がガタガタとふるえている。

永六輔は自ら作詞したこの歌を坂本九が歌うことに反対だった。もっと歌のうまい歌手に歌わせるべきだと主張したが八大は「あれがいいんだ」と受け付けなかった。なぜ八大が九をあれほど贔屓ひいきにするのか分からなかった。それにしても坂本九のあの歌い方はどのようにしてできたのか。未だに謎に包まれている。

「上を向いて歩こう」はそのあと「夢であいましょう」の今月の歌になり、放送と同時に人気が沸騰した。八大も六輔もそして歌った九も、この歌がヒットするなどとは夢にも思っていなかったのである。坂本九は生前、こう語っている。「あの曲を貰ったときはどうしようかと思った。だってメロディに対して恐ろしく歌詞が少ない。最初、間違いかと思ったくらい…。いろいろ考えてああいう歌い方をしたんです。八大さんは僕ならプレスリーみたいに歌うだろうと思っていたらしいから」

九はプレスリーの真似をして歌うのが得意だった。英語を母国語とする英米人でさえ、プレスリーの英語を聴き取れない部分があるという。もう一つ、九は幼い頃から母親の影響で端唄、長唄など邦楽に馴染んでいた。その影響もあるのではないかとも言われている。

永六輔の詞もまた普通の会話で使う日本語で分かりやすい。そしてまた、歌の主体が男なのか女なのか、若いのかそうでないのかが判然としない。もともとはこの何倍もの長さだったようだが、曲をつける段階で八大がばさばさ削ったと言われている。「読ませるだけの詞ではないのだから全部説明する必要はない。そのために曲がつくんだ」というのが八大の理屈だった。名作詞家永六輔は八大によってその才能が開花したといってもいいのだろう。ジャズ・ピアニストの曲と、分かりやすい詞、不思議な歌唱方法、これらが相まって出来上がったのが「上を向いて歩こう」だった。

坂本九はこう書き遺している。

「心臓病のある小学生が、この歌が大好きで、ノートのはしに書きつけて覚えようとしていたところが、とうとうボクのレコードが出る前に亡くなった。その死の直前までこの歌を口にしていてくれ、仏壇をテレビの見える位置に移して亡くなったという。お母さんの手紙で知ったのだが、その子の気持ちがありがたくて、ポロポロ涙を流した」(『坂本九その9年』)

全米チャートで「上を向いて歩こう」が1位になったのは1963年6月15日。日本では3年前の反安保闘争で国会前で東大生樺美智子が亡くなった命日である。英語以外の歌詞で全米チャート1位になったのはこの歌で2曲目。その後、SUKIYAKIという曲名でさまざまな歌手やグループが歌い、その英語の歌詞もさまざまである。日本語と英語の両方に通じている音楽家というのでオノ・ヨーコが依頼されて英語の詞を書いている。曲名はLook At The Sky

Look at the sky

when you walk through life

See how the stars blur when your tears flow

As you remember

the Summer days so bright

On this lonely, lonely night

 

(空を見てごらん。人生を歩むときは涙が流れると星のきらめきがにじむ。思い出すのはあの夏の輝ける日。こんなに寂しいひとりぽっちの夜)

それにしても、不思議なことがある。永六輔、中村八大による名曲を並べてみると、「黒い花びら」「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「帰ろかな」などに共通するもの。それは曲の題名がそのまま歌の出だしになっていることである。もちろん、そうでない歌もあるが、なぜ、そうなったのかは謎のままである。

代表的なのが「上を向いて歩こう」であり、こうした詞のあり方は当時まだ無名の作詞家だった阿久悠らに大きな影響を与えている。世界でもっとも歌われた日本の歌はいまや苦難を乗り越えて立ち上がろうとする人への応援歌にもなっている。東日本大震災など災害が起こるたびに、立ち上がろうとする人たちも支える人々も、「上を向いて歩こう」を歌う。いまや世界中で歌われるスタンダード・ナンバーになっている。

坂本九のなんとも言えない人懐こさをたたえるあの笑顔を見つめながら、この曲を何度も聴き直した。彼の笑顔をたくさんの写真やビデオで見ていて思う。彼の笑顔の奥には、たくさんの哀しみが隠されているのではないか。彼がだれからも好かれるのは、心の深奥にひそむ哀しみの力だという気がする。御巣鷹山の日航機墜落事故であの笑顔が消えてから、まもなく37回目の夏を迎える。■

 

Editor at largeのひとこと

忘れもしない。あの日、私は日本経済新聞の整理部員だった。朝刊一面の面担、つまり一面の見出しやレイアウトなど一切を担う担当である。

夕刻、引き継ぎを終え、デスクの隣の席に着いた途端、共同通信の「ジャン」が鳴った。特大ニュースを告げる派手な音が編集局内に鳴り響く。乗客乗員524人を乗せた日航123便が行方不明、との第一報である。

全員総立ちになった。横山秀夫原作の映画『クライマーズ・ハイ』と同じく、それから編集局は戦場と化した。記事が1行も届かないうちに、版の締め切りが次々と迫る。情報不足の「目隠し操縦」で、紙面はダッチロール。当てずっぽうの見出しで記事を流しこんだ面担は、全国で何人いたろうか。私もその一人だった。

群馬の山奥で、山頂が燃えている暗闇の画像がテレビに流れた。覚悟を決めた。最終版は二段ブチ抜き、ベタ黒白抜きで「524人絶望」と打った。一気にアドレナリンが噴きだした。

そのまま泊まり番だったが、ほとんど寝ずに早朝のテレビを見て愕然とする。生存者ありの報。ヘリで吊り上げられていく奇跡を喜ぶ前に、「絶望」と打った勇み足に胸が痛んだ。「ムリもないさ」と同僚に慰められても、自分が許せない。

深く悔いた。頭に血がのぼった「クライマーズ・ハイ」で、先に人を殺したのだ。1986年1月のスペースシャトル「チャレンジャー」爆発でも、なぜかまた一面面担だったが、今度はあつものに懲りて見出しが踏み込めない。取材の第一線に戻ろうと決心したのはあの時である。

だから今も「上を向いて歩こう」は、私の「クライマーズ・ハイ」の失敗を意味する。後方で四の五の論評しても仕方がない、前へ、常に前へ、と私を叱咤する。あれから36年余、今も悔し涙がにじみ、空をふり仰げば、常に山影に墜ちていく機影を目で追っている。

老驥ろうきれきに伏して千里を想ふ。(A)