世は歌につれ
人生が声に乗り移るひばりの難曲 世は歌につれ
                1979年の第30回紅白歌合戦に特別出演し、メドレーで歌う美空ひばり(YouTubeより)

第20回

人生が声に乗り移るひばりの難曲

歌謡曲に親しみを感じ始めてから70年にもなる。昭和20年代後半からいまに至るまで、たくさんの歌謡曲を聴き、歌い、好きな歌手に会いに行き、作詞家や作曲家の話を聴き、いま、作詞をする傍らこうして歌の話を書き続けている。「全日本こころの歌謡選手権大会」なる歌の大会を開催し、新しい楽曲40あまりと50人ほどの歌上手を世に送り出した。「こころに伝わる歌を、歌い手を」を目標に、決勝大会は自衛隊音楽隊の生演奏でという大会である。

この70年の間、常にその存在を意識してきたのは「美空ひばり」である。戦後日本の最大の歌手は美空ひばりである。数多くの名曲の詞を書いた阿久悠は「美空ひばりが歌うような詞は書かない」と言い続けてきた。それはひばりを軸にして出来上がっている歌謡界へのひばりと同い年の阿久悠の反逆の姿勢の現れであり、それほどひばりの存在は若手作詞家など近づくこともできないような巨大な壁だったということではないか。

阿久悠はスポーツニッポン紙上で作詞講座を連載していたことがある。そこで美空ひばりに歌わせるとしたら自分ならこんな詞を書く、と紹介したのが、のちに八代亜紀の代表曲になる「舟唄」である。同社の常務をしていた音楽評論家の小西良太郎が絡んでいると思われる。八代亜紀でなければあの味は出せないとまで言われた舟唄。ひばりが歌ったならどんな歌になっただろうかと阿久悠自身も思っていたに違いない。

阿久悠は調べた限りでは4曲ひばりの歌を書いている。「花蕾」(曲吉田正)、「人」(曲吉田正)、「恋夜曲」(曲杉本眞人)。そしてこの歌である。

それでも私は生きている

井上かつお

 

盃かさねて泣く夜でも

夜明けを待つならたえられる

おもたい運命さだめさしむかい

それもいいじゃないか

だめよだめよだめよ

すねてなにになるのさ

ただひとり生きているうちにゃ

夜もある

この歌の2番は「だめ捨てちゃだめよ」になり3番ではそれが「だめ死んじゃだめよ」になる。人生の応援歌なのである。晩年のひばりには人生を歌った歌が多い。いま思うと我が身の短い人生を予感していたのではないかと思うほど、これらの歌には魂が宿っているような気がする。歌で魂を揺さぶられ、それを生きる糧にしたというフアンがひばりには多い。その中で1曲あげるとすればこの曲だ。

熱禱(いのり)

川内康範小野透

 

愛しいあなたよ

わたしが死んだらなきがらを

誰にも指をふれさせず

頬にくちづけしてほしい

それがわたしのしあわせなのよ

 

(語り)あなた私は幸せこんなにしていただいて何一つお返し出来ない私をお許しになってでも私はあなたの胸の中できっとあなたをお守りしていますいつまでもいつまでも

 

愛しいあなたよ

わたしが死んでも泣かないで

この世にうすい命でも

恋に燃えたわかぎりなく

それがわたしのしあわせなのよ

作曲した小野透は実弟である。この歌を歌うひばりは間違いなく泣いている。スローテンポゆえに余計に哀しくつらい。この歌でこれほど聴く者の魂を揺さぶることの出来る歌い手は美空ひばり以外にはいない。

「川の流れのように」「悲しい酒」「みだれ髪」「哀愁波止場」、ひばりの名曲をあげればきりがない。「お祭りマンボ」「真っ赤な太陽」など明るい歌もあるけれど、真骨頂は死ぬほどつらく悲しい歌だと思う。美空ひばりの代表曲の「悲しい酒」(詞石本美由起古賀政男)、どう見てもひばりのために出来た曲としか思えないが、元は北見沢惇という男の歌手の歌だった。しかしヒットせず北島三郎もひばりより前に歌っている。

古賀政男の弟子のアントニオ古賀も挑戦したがだめ。それほど難しい曲なのである。この歌を歌う時もひばりは涙を流す。

歌い手、とりわけ女性歌手は波瀾万丈の人生を送る人が多い。世間的な意味でのいわゆる幸せな人生を送った歌い手はあまり見当たらない。そういう意味ではひばりほど波瀾万丈の人生を送った歌手もいない。12歳でレコードデビューし、映画に舞台にコンサートに活躍し続けてきたが、子供の頃は「子供らしくない」と批判を浴びた。後見人の山口組三代目田岡一雄組長との関係で批判され、2人の弟も絡んで、NHK紅白歌合戦出場辞退などということもあった。そしてさまざまな恋愛、小林旭との結婚、離婚。そして度重なる入院。いま美空ひばりの歌を聴き直してみると、人生が声に乗り移っているように思える。静かに心落ち着いた時に、この歌をYouTubeで聴いてみてほしい。

流れ人

秋元松代猪俣公章

 

沖をこぎゆくあの小舟

誰が乗るやら遠くなる

家に待つのは親か子か

いとしい妻も待っていよ

わしは磯辺の波の上

待つ人もない捨て小舟

波間によせる藻をひろう

憎や玉藻に身は濡るる

風よ吹くなよ心が凍るよ

(注=歌のタイトルをクリックすると、YouTubeの画面に移ります)■

 

Editor at largeのひとこと

大晦日の紅白歌合戦をパスするようになってもう久しい。いつからだったろう。あれは1973年のことだ。新聞社に入社して1年目、10月に第4次中東戦争が起きて、石油ショックに見舞われた年だが、もうひとつ、美空ひばりが紅白で歌わなくなった年でもある。

紅白出場17回、大トリ11回と、このお化け番組の大看板であり、最大の功労者が外されたのは、実弟かとう哲也(小野透、「熱禱」のYouTube画像では、作曲者としてギターを弾いている)が前年から暴行、賭博、脅迫、拳銃購入とご乱行続きで、ひばりファミリーが警察の山口組頂上作戦の標的になっていたからだ。彼女のメンツを立てて「出場辞退」とされたが、10歳から三代目田岡一雄組長と親密なひばりは、国民の行事、紅白にそぐわないと烙印を押されたにひとしい。

それに殉じて紅白を見なくなったわけではない。73年の東京社会部配属は一人だけで、東京生まれで東京育ちだけに「帰省しなくたっていいんだろ」と大晦日の出番にあてられた。年越しの未明には明治神宮までカメラマンとニコイチで送りこまれ、初詣のエトキ記事を最終版に突っ込まなければならない。フィナーレがひばりでない紅白など見る暇も義理もなく、それ以降はこの番組を無視するのが習い性となった。

実は6年後の79年、ひばりは一度だけ紅白に特別出演し、ヒット曲のメドレーを歌ったが、藤山一郎と並ぶ別枠で、その後も52歳で人生を閉じるまで二度と紅白には戻らなかった。NHKとの「和解」を演出したものの、遺恨は消えず、彼女にも意地があったのだろう。

そして今年は松田聖子が紅白を辞退した。もう還暦目前の59歳だが、さすがに娘の神田沙也加の死に「とても歌えない」とNHKに伝えたという。死因の詮索は週刊誌に任せよう。沙也加がつくづく気の毒なのは、「アナ雪」で歌唱力を絶賛されながら、日本のミュージカル歌手の宿命で、持ち歌と言えるものがないことだ。すべて翻訳のカバー曲では、彼女の声が憑依すべき白鳥の歌とならない。母の歌の作詞・作曲もしたことがあるから、歌作りの才能もあったのに、やはり、かとう哲也のように「七光り」の呪縛に押しつぶされたのか。

今度も紅白は見ないだろう。痛ましくて、いたたまれない。(阿部重夫)

 

 

 

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