


第2回
藤圭子・ヒカルの「母子舟」
ダンスパーティーで誰からも誘われない壁の花のように少女は所在なげだった。この少女が何者かを知っているのは天井の高いこの部屋にいる百人ほどの招待客の中でも私ぐらいだろう。招待客の中には誰もが知っている元総理大臣や芸能人がいた。「ワーッ有名人ばかり」と興奮気味の少女に私はこう言った。「一番の有名人はきっと君だよ」
内閣総理大臣官邸が新しくなる直前の2002年2月18日夕刻。旧官邸で行われたおそらく最後の公式行事になったであろうブッシュ米国大統領歓迎レセプション。高齢者ばかりの招待客の中でたった一人の十代の少女。歌手の宇多田ヒカルだった。
レセプションが始まる前、招待客は列を作って大統領に挨拶をする。私の少し前にいた彼女を総理大臣小泉純一郎は大統領に紹介した。大統領が何かを話しかけ、それにネイティブの英語で答える。周りから小さなどよめきが起こった。
その1年ほど前だっただろうか。私は手に入れたばかりの宇多田ヒカルの『First Love』というCDを小泉にあげた。この子はこれから必ず日本のトップシンガーになると解説をつけて。半月ほどたって小泉からお返しにとイタリアの作曲家エンニオ・モリコーネのCDが送られてきた。小泉とは政治家と政治記者という関係よりは趣味が共通する友人同士という間柄だった。小泉が国会答弁で「人生いろいろ会社もいろいろ」と答弁して顰蹙を買ったのは私が島倉千代子を紹介したことと関係あったと思っている。
〝壁の花〟はそのとき19歳になったばかりのはずだったが、高校1年生ぐらいにしか見えなかった。しばらく相手をし「君のお母さんはすごい歌手だったよ」と話した。私の世代では高倉健と藤圭子は好きか嫌いかという論争が成り立たない存在だった。宇多田ヒカルはじっと私の藤圭子論に耳を傾けていた。母親の話を聞くというよりは昔の歌手の話を聞いているふうだった。
藤圭子は1969年9月「新宿の女」でデビューする。私は新聞社の社会部記者として慣れない大阪で苦労していた。そこへ18歳になりたての藤圭子が、迫力のあるしゃがれ声で出てきた。「私が男になれたなら私は女を捨てないわ」と年増の女が口にしそうな詞を歌うのだ。続けざまに「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」。師匠の作詞家石坂まさをの3連発で、あっという間にトップスターに。折から森進一、カルメンマキらの暗い歌が受けている頃だった。
新宿を舞台に本名阿部純子から藤圭子になった。なぜなのか、44年後62歳で西新宿の高層マンションから飛び降りる。突然、歌手前川清と結婚したときも驚いた。10年たってほかの生き方をしてみたいと引退し、アメリカへ行ってしまったときも驚いた。なぜなのか。そして飛び降り自殺。もし本人に聞くことができたとしてもきっと「理由なんて別にないよ、人間のすることに一々理由なんてないでしょ」と笑うだろう。
なぜ一人で歌手を辞めてニューヨークへ行ったのか。英語も話せず知り合いもいない土地へ若い女が一人で出かけるだろうか。ニューヨークで誰かを待っていたという説もある。一緒に暮らすはずだった人、たぶん男はとうとう来なかった。失意の藤圭子はやがてヒカルの父親となる男と知り合う。ニューヨークへ出かける前の藤圭子と長時間インタビューした沢木耕太郎は圭子の死後、『流星ひとつ』(新潮社)という単行本にした。
その中で圭子はこう語っている。「お母さんが言うんだよね。純ちゃんの周りには、とても立派で素敵な人がいるのに、どうしていつもよりによって…」。歌手としても人間としても尊敬している前川清との結婚はうまくいかなかった。「前川さんはいい人だよ。それに抜群に歌がうまいよ。あたしはそう思ってる。でも、別れる別れないというのは、それとは違う話だよ」
藤圭子がデビュー10年で引退を表明したのは、声が出なくなって喉の手術をしたら、前の声と変わってしまったからだという。嘘をつくのがいやだった、とも語っている。この人の言葉には普通のスターなら誰でも口にしそうな当たり前の言葉がまったくない。本音の言葉しか出てこない。そこが魅力でもあり、人間関係が下手な理由でもあるだろう。
藤圭子は娘ヒカルの才能を見抜いていた。ジャズでも歌謡曲でも何でもうまく歌う天才だとヒカルが3歳のころから吹聴している。それほどまでに目をかけた愛娘ともなかなかうまくはやれなかった。自分が母親と何度も絶縁したように。ヒカルの声はたしかに藤圭子に似ていると思うことがある。何かで母娘で「夢は夜ひらく」を一緒に歌っている映像を見たことがある。たしかに良く似てた。
いつも感じていることだが、どうして女のスター歌手はあまり幸せな人生を送れないのだろうか。幸せそうな歌手がいないわけではないが、極めて少ない。「人間活動をしたい」と歌手活動を休んでいた宇多田ヒカルは復帰後、さらに大きな国際的歌手として羽ばたいている。この活躍を母親が喜んでいないわけはない。圭子の死後、日の目を見なかった歌が出てきた。録音当時、藤圭子のイメージに合わないとしてお蔵入りした歌だ。
母子舟 作詩石坂まさを作曲平尾昌晃
川の名前は悲しみ川で
漕げば艪が泣く胸が泣く
浮世荒波女手ひとつ
越えて行こうね今日もまた
それぎっちらぎっちら
ぎっちらこ母子舟
ヒカルが生まれた翌年レコーディングした歌だ。いま歌っているのではないかと思うほど歌詞が真に迫っている。これほど歌のうまい藤圭子もデビュー前に、レコード会社5社すべてでオーディションに落ちている。従来の歌謡曲の歌い方からあまりにはずれていると判断されたからだ。声の質から言えばロック歌手に近い。藤圭子がそのまま発展して宇多田ヒカルになったといえるのかもしれない。ヒカルの歌を聴きながら、あのときの少女がこんなになったのかという感慨に浸っている。(敬称略)■
Editor at largeのひとこと
本名が私と同じ姓の「阿部」だし、藤圭子は格別のミューズだった。こけし人形のような彼女が歌う「新宿の女」や「夢は夜ひらく」は、学園紛争世代にとってはいつ聞いても、いわく言い難い感傷をもたらす。あのドスのきいたハスキーな声が、居酒屋でもパチンコ屋でもどこでも流れていて、思い浮かぶのは、彼女の歌う姿より眼前を過ぎていった雑踏ばかり。怒号と嬌声、ダジャレと笑いとまぜこぜでしか聞こえない。
藤圭子とは、あの時代の「通奏低音」だったと思う。貧しい生い立ちといったありがちなストーリーはどうせ芸能プロかレコード会社のつくり話だろうと信じなかったが、前川清との結婚と離婚、歌手を引退して海外へ行き、あげくに飛び降り自殺……私事がどうであれ、彼女は不幸を歌うために生まれたような歌手だった。
娘の宇多田ヒカルの歌を聴いたのは、英国でだった。98~99年、ケンブリッジ大学で客員研究員だったころである。教員用の個室暮らしで無聊を慰めるため、ロンドンで買ってきた彼女のCDを毎日ヘッドホンで聴いて暮らした。むろん、藤圭子の娘と知って、どんな歌手だろうと思ったのだが、歌詞の英語部分の発音がスムーズで、リズム感もおよそ日本離れしていた。ああ、早くから海外で暮らして音楽びたりだったのだなと思った。
それでも、われわれの世代は彼女のはずむ歌声の彼方に、藤圭子の暗い通奏低音を聴いてしまう。哀しいさがというべきだろうか。(阿部重夫)
=JASRAC許諾第9027371001Y38029号